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篠山紀信の写真力「うそにうそを重ねるとリアルが生まれる」(後編)

  • September / 22 / 2017

歌舞伎ではなく“人間”を撮る

後藤:次の写真はですね、坂東玉三郎さんが若い頃のものです。これは最近出版された『KABUKI by KISHIN』からの1枚。1970年の撮影ですから、47年前ですか。

©Kishin Shinoyama

篠山:玉三郎がちょうどハタチのときだね。当時はちょっとは人気が出ていたけど、まだそこまでの役者ではなかったんです。それがいまじゃ、人間国宝ですよ。

後藤:玉三郎さん以外にも、中村勘三郎さんとか、片岡仁左衛門さんとか、市川海老蔵さんとか、『KABUKI by KISHIN』には、50年近くにもわたる、そうそうたる歌舞伎役者たち40数名もの写真が収められていますよね。普通はまずこんな写真集をつくれませんよ。

篠山:なぜ私が歌舞伎を撮り始めたのかというとね、最初は『芸術生活』という雑誌の編集者に、歌舞伎特集をやるからと声を掛けられたんですよ。当時も、土門拳さんとか、木村伊兵衛さんとか、歌舞伎を撮る名人のような写真家はたくさんいたんです。でもその編集者は、そういう人じゃ面白くないから、若いやつに撮らせようと思ったらしい。ちょっと浅はかな発想だったんじゃないかなとは思いますよ。面白そうだと私はすぐに引き受けたけれど、そのとき撮った歌舞伎の写真は、いま見ると恥ずかしくてしようがない。そのくらい、歌舞伎を撮るのは難しいんです。

後藤:この玉三郎さんの写真も、その頃のものですよね。

篠山:玉三郎は、当時の歌舞伎界にあって、一人だけ背が高くて、すらっとしていたんです。この世のものとは思えないような不思議なオーラがあってね。これはすごい、舞台の上の歌舞伎は難しいけれど、この人なら撮れるかもしれないと思って、撮らせてほしいと頼んだんです。この写真は、まだ誰もいない朝の楽屋で二人きりで撮ったんですよ。小道具のろうそくを持ち込んでね。でも、この撮影がきっかけで、玉三郎は一時、勘当されたんです。

後藤:それはまた大ごとですね。

篠山:玉三郎ってのは、もともと歌舞伎の家の出じゃないんですね。大塚にある料亭の子で、芸養子(※注)として守田勘彌さんのところに入ったんです。養父の勘彌さんにとっては、それこそ宝物のような子で、しかもちょうど人気が出始めたときだった。それが朝から楽屋で化粧して、衣装を着て、ろうそくをともして、訳の分からないカメラマンに撮られている(笑)。悪い虫が付いたとでも思われたんでしょう。

でも、勘当だって勘彌さんが言ったら、ああそうですか、と答えたなり、玉三郎は大塚の家に帰ってしまって、1週間たっても、2週間たっても戻らなかった。玉三郎にしてみれば、自分の若い頃のきれいな姿を、篠山さんという人が撮ってくれる、いいじゃない、ってことだったんでしょうね。

※芸養子……歌舞伎役者に子がいない場合などに、能力のある子供を芸上の子供として養い育てること。

後藤:悪いことはしていないんだから、謝らない、帰らない、と。

篠山:そういうことだね。まあ、いろいろあって、結局は丸く収まって、玉三郎も戻ったんですけどね。で、その後で、勘彌さんが、いったいどんな写真を撮っていたんだと見たら、これが結構いい写真だった。それで、「篠山、なかなかやるじゃん」って話になったとか、ならないとか(笑)。

でもね、私がそのときに撮ったのは、やっぱり歌舞伎じゃなく、人間なんですよ。玉三郎を見つけて、玉三郎という人間に興味を持って、玉三郎という人間を撮ったんです。その後も、玉三郎のことは何年も撮っていますし、写真集も5冊くらい出しているけど、歌舞伎を撮っていないんです。人間を撮っているんですね。

現代の写真を撮るなら、現代のカメラで

後藤:面白いのは、この『KABUKI by KISHIN』という1冊の写真集の中で、先生自身も変わっていっているところですね。分かりやすいところでいえば、この玉三郎さんの写真はフィルムで撮っているけど、最近のものはデジタルカメラでしょう?

写真集「KABUKI by KISHIN」

篠山:それもよく聞かれるのだけど、いまの私の写真は、ほとんどがデジタルカメラです。だって、舞台を撮るにしても、1200ミリのレンズを使って、グワッと感度を上げたりして、テクノロジーを生かしたほうがうまく撮れるわけでしょ? やっぱりね、現代の写真を撮るなら、現代のカメラですよ。

後藤:そこ、重要ですよね。

篠山:私はデジタルカメラを使うようになるのが早かったのだけど、それでも最初のほうは不安だったから、同じものを35ミリでも撮っていたんです。印刷のときはその両方で組んでもらって確認したりもしていたのですが、ある時点から、刷り上がったものを見ても、どっちがデジタルで、どっちが35ミリか、見分けがつかなくなりましたね。2000年か、2001年くらいのことです。で、これならいけるということで、デジタル1本にしたんです。

後藤:最近は、アマチュアの中にもフィルムにこだわる人も出てきているみたいですが…。

篠山:あれはあれで、いいんじゃないですか。だって、フィルムを使うこと自体が楽しいわけでしょ? フィルムのどこがいいの、と聞いたら、「現像までに時間がかかるところが好きです」なんて答える人もいるくらいだから(笑)。

後藤:写真の良し悪しの話じゃないってことですね。

篠山:そうそう。つい最近も、『週刊文春』のグラビアで女優の満島ひかりを撮ったのだけど、私はもちろん全部デジタルカメラですよ。しかも、一つとしてノーマルな状態の写真はないですね。コントラストを上げたり、色調を変えたり、微妙に全部変えているんです。そのほうが、満島ひかりという子が持つ野性味だったりといったものが、すごくリアルに出るから。同じことをフィルムでやろうと思ったら大変ですよ。あれをこうして、これをああしてって、いろいろ手を掛けなくちゃいけない。でも、デジタルなら、瞬時にできてしまうわけでしょ? だから、プロとして写真を撮るならデジタルでいいんじゃないの、と私は思いますけどね。

毎回がターニングポイント

後藤:さて、篠山先生といえば、やはりヌードです。その中でも代表的な作品は宮沢りえさんですよね。どこで撮ったんですか?

篠山:写真集のタイトルにもなったサンタフェです。アメリカのニューメキシコ州にある、芸術がさかんなことで知られている街ですよ。ジョージア・オキーフという有名な絵描きがいて、旦那さんが、アルフレッド・スティーグリッツという、これも有名な写真家なんだけど、その夫婦がサンタフェでいろんな作品をつくっているんです。そんなこともあって、私の中にはサンタフェは一種の聖地だという印象があってね。で、18歳になったばかりのりえちゃんのヌードを撮れるというから、その聖地をぶつけてみたわけです。カメラも8×10の新品を買って臨みましたね。

後藤:被写体へのリスペクトもあるのでしょうが、そういう条件というか、背景の部分でも徹底されているから、こういう写真が撮れるんですね。

篠山:毎回、新しい条件で、新しいことをやって、何が起こるか分からないという中で撮っていますよ。そこに立ち向かう勇気を振り絞りながらね。こう言うと、そんなに何十年もやってたら、いまさら勇気なんていらないでしょ、なんて言われるのだけど、やっぱり不安なんです、いつも。そこを超えていくには、勇気もそうだし、覚悟のようなものが自分の中にないと駄目。そういう意味では、現役として写真を撮っているかぎりは、毎回がターニングポイントと言ってもいいくらいです。

後藤:毎回がターニングポイントですか。

篠山:もちろん、振り返ってみたときに、60年代とか70年代とかという時間の中で、大きく自分が変化したのはあの仕事だったな、あれが影響していたな、ということは、後から言えるとは思いますけどね。

どうにもならないエネルギーの中でシャッターを押す

後藤:『オレレ・オララ』はどうですか? ブラジルまでリオのカーニバルを撮りに行かれた…。

篠山:さすが、いいところを突いてくるねぇ(笑)。『オレレ・オララ』は1971年に出した写真集だけど、あの少し前に私は『nude』という写真集を出したりして、当時は若手作家としてそれなりに注目されていたんです。はっきり言えば、ちょっといい気にもなっていた。いまはギンザシックスになっていますけど、あの前にあった松坂屋の7階で大きな展覧会をやったりもしていたからね。

ただ、その頃の私は“作品っぽいもの”を撮っていたんですよ。要するに、自分のアイデアとかイメージを力ずくで写真にしたものが作品なんだと思っていた。だから、世界の果てにでも行ってヌードでも撮らなければ、もう話題にもならないし、新しいとも言われないんじゃないか、なんて信じていたんです。でもあるとき、それって不毛なことだな、と気付いたんですね。そこから、自分の力ではどうにもならないエネルギーの中に身を置いて、そこでシャッターを押すということをしてみたいと思うようになった。そのときにふと思い出したのが、リオのカーニバルだったんです。

後藤:リオのカーニバルは、本当にすごいですよね。街を挙げて、4日間、朝も昼も夜もなく、みんなが踊り続けるんですから。

篠山:その熱狂の渦の中に飛び込んで、そこに浸ってシャッターを押したら、どんな写真が撮れるのかなと思ったんですよ。それで35ミリ1台だけ持って、リオデジャネイロに行きました。そうしたら、本当に街中でみんなが踊り狂っていて…。通りの反対側に渡りたいと思っても、どうにも身動きが取れないくらい。じゃあ、どうすりゃいいんだというときに、そうか、自分もサンバを踊ればいいんだ、と思った。で、実際にやってみたらすぐに渡れちゃったんです。

その瞬間にね、写真もこういうことなんじゃないか、と感じたんですよ。自分が力ずくでつくりあげるんじゃなくて、時代とか世の中のことをまず受け入れる。受け入れることによって、新しいものを獲得できるんじゃないかって。『オレレ・オララ』は、そうやってつくった写真集なんです。確かににあそこで篠山が変わったという人も、結構いますよね。

「真実を切り取る」写真の使命はもう失効しつつある

後藤:で、これが最新作ですね。「LOVE DOLL×SHINOYAMA KISHIN」展から、ラブドールを撮った1枚。昔はダッチワイフと呼ばれたりもしましたが、ありていに言えば、人形の性具です。いまはつくりも精度もすごく上がっていて、人形なんだけど人間以上に人間っぽい。それをモデルとして撮った作品です。

©Kishin Shinoyama

篠山:人工知能も進化してきていますからね。そういうものを組み込むと、もしかしたら人間よりも良くなってしまうかもしれないよね。

後藤:先生はいままで、写真集や雑誌のグラビアなどで裸をたくさん撮ってこられたわけですけど、ラブドールを人間のモデルと同じように撮るというのは、これもまたすごい挑戦ですね。

篠山:いまの社会には、地球温暖化だとか、いろんな問題があるわけだけど、地球にとって何がいちばんいけないのかというと、人間が生きていることじゃないですか。人間が死んじゃえば、問題はなくなるわけでしょ?

後藤:まあ、極論すればそうですね。

篠山:とすると、人工知能を持ったラブドールたちがそこに気付いたら、将来、人間を滅ぼすことだってあるかもしれない。そのとき、どうなってしまうのか…という近未来的なミステリーを小説や映画でやっている人はいるけれど、写真でやっている人はいない。それをやってみようかなという思いもあったりしますね。

後藤:さっきも虚構×虚構がリアリティを生み出すというお話がありましたけど、この作品もやっぱり虚構×虚構です。芸術はだいたい死をテーマにしていますが、「LOVE DOLL×SHINOYAMA KISHIN」展の作品の数々は、死すら虚構化していると感じます。

現代は現実がうそ、つまりは虚構にあふれていたりする。その中で真実を切り取るという使命が、かつては写真にあったわけだけど、僕はそれももう失効しつつあると思うんです。なのに、いまだに多くの写真はそこにしがみついていて…。先生の写真はそんないまの時代に対して、強いメッセージを投げかけているんじゃないかと思いますね。

(了)

篠山紀信

写真家

1940年、東京都生まれ。日本大学芸術学部写真学科在学中から頭角を現し、広告制作会社「ライトパブリシティ」で活躍、1968年からフリーに。三島由紀夫、山口百恵、宮沢りえ、ジョン・レノンとオノ・ヨーコなど、その時代を代表する人物を捉え、流行語にもなった「激写」、複数のカメラを結合し一斉にシャッターを切る「シノラマ」など新しい表現方法と新技術で時代を撮り続けている。2002年から、デジタルカメラで撮影した静止画と映像を組み合わせる「digi+KISHIN」を展開。ウェブサイト「shinoyama.net」でも、映像作品、静止画、DVD作品など多数発表している。2012年、熊本市現代美術館から始まった「篠山紀信展 写真力 THE PEOPLE by KISHIN」は全国を巡回中、90万人以上を動員。また2016年以降、東京・原美術館で「篠山紀信展 快楽の館」、箱根彫刻の森美術館で「篠山紀信写真展 KISHIN meets ART」、アツコバルー arts drinks talkで「LOVE DOLL×SHINOYAMA KISHIN」を開催するなど、精力的に活動を続けている。

後藤繁雄

編集者/クリエーティブディレクター/京都造形芸術大学教授

1954年、大阪生まれ。広告制作、企画、商品開発、ウェブ開発、展覧会企画などジャンルを超えて幅広く活動し、“独特編集”をモットーに篠山紀信氏、坂本龍一氏、蜷川実花氏らのアートブック、写真集の編集などを数多く制作。東京・恵比寿の写真とグラフィック専門のギャラリー「G/P gallery」ディレクター。G/P galleryを通してPARIS PHOTO(パリ)やUnseen Photo Fair(アムステルダム)などの国際的なアートフェアにおいて日本の若手フォトアーティストのセールス&プロモーションや、篠山紀信氏や蜷川実花氏の大型美術館での展覧会プロデュースを次々と成功させる。また三越伊勢丹をはじめとする企業と組み、新しいアートとブランディングの実践を精力的に進めている。