2017/06/26
スノーピークの「好きなことをやって、社会のためになる経営」(後編)
- December / 20 / 2017
「地方の弱小企業」の「すごく高い目標」
国見:そのあたりのことを含めてスノーピークでは、企業のミッションとして「The Snow Peak Way」※というステートメントを書かれていますが、あれは非常にビジョナリーですよね。事業としての計画はもちろんあるのだけど、それ以上に明確なビジョンがあるからこそ、社員もついていくのだなと納得できます。
※「The Snow Peak Way」 https://www.snowpeak.co.jp/about/message/
山井:「The Snow Peak Way」を書いたのは、89年か、90年のことですが、当時は社員もまだ20人くらいでした。でも、キャンプには社会的なニーズがあることが分かってきていたし、いずれ日本に根付くという確信もありました。
そういう中で自分たちが社会に貢献できる企業になるためには、やっぱりベクトルを合わせたほうがいい。そんな思いから、僕も含めた当時のメンバーにまずは自分自身のミッションを書いてもらったんです。そして、それぞれの部署の中で書いたものを突き合わせてもらって、そこでのミッションを書いてもらい、全員分のミッションと、部署ごとのミッションを僕が預かって、自分の思いを加えたりして書き上げたのが、あのステートメントです。
「私達は自らもユーザーであるという立場で考え、お互いが感動できるモノやサービスを提供します」もそうですが、他にも「自然指向のライフスタイルを提案し実現するリーディングカンパニーをつくり上げよう」とか、「私達は、常に変化し、革新を起こし、時代の流れを変えていきます」とか、「私達は、私達に関わる全てのモノに良い影響を与えます」とか、新潟の燕三条にある弱小企業にしては、ものすごく高い目標を掲げていたと思いますよ。「私達スノーピークは、一人一人の個性が最も重要であると自覚し…… 」なんて、30年近くも前に、ダイバーシティを語ってもいますから(笑)。
国見:本田宗一郎さんが、創業して間もない頃に、従業員に向かって「これからは世界的な視野に立ってものを考えていこう」と話したら、吹き出した人がいた、というエピソードをどこかで読んだことがあるのですが、当時の日本の状況を考えると、普通の人が笑うのも分からなくはありません。でも、そのくらいの思いきった発言をする本田宗一郎という人がいたから、いまのホンダがあるのだと思うんです。それと同じで、「The Snow Peak Way」で高い目標を掲げたからこそ、いまのスノーピークの成長があるとも言えますよね。
山井:そうですね。ただ、「The Snow Peak Way」に関しては、僕がトップダウンで決めたわけじゃなくて、みんなが参加して決めたことなんです。それを掲げて30年近く、みんなで愚直にやってきた。そのことは大きかったなと思いますね。
「住まいや暮らしをつくるもの」としてのキャンプ
国見:いまはそこからさらに、いろんな事業を新たに立ち上げてもおられます。新規事業に取り組むときには、やっぱり「The Snow Peak Way」に立ち返られるのですか?
山井:スノーピークとしてやる事業はすべて、まず「The Snow Peak Way」に合致しているかどうかを考えます。例えば、アパレル事業にしても、アウトドアをテーマにしたブランドなんて、すでにたくさんあるわけですよ。でも、「ホームとテント」、つまりは「日常生活とキャンプシーン」をそのまま行き来できるものはまだないんです。東京で着てもかっこいいけど、キャンプシーンでもちゃんと機能する。そうであってこそ、スノーピークならではのアパレル事業ですよね。そういったコンセプトの部分は、特に大切にしています。
国見:山井さんの娘さんで、アパレル事業を立ち上げられた梨沙さんが、以前、「キャンプに行くときに、みんな登山用のアウターとか着ていくけど、本当はそんなのはいらないと思う。キャンプに行くのと、家にいるのと、同じ格好で大丈夫」とおっしゃっていたのがすごく印象的だったのですが、確かにそういうアパレルブランドはありませんし、そういう考え方はスノーピークらしくもありますよね。だいたいアウトドアの衣料って、自然に負けない、自然に打ち克つというスタンスでやっているところが多いと思うんです。でも、スノーピークはまったくそういうところがなくて、基本は共生ですから。
山井:少しだけ話は変わりますけど、アパレル事業といえば、表参道の直営店でうちの服を買ってくださっていた人が、1年くらいしてから初めて、「えっ、スノーピークって、キャンプもやってるの?」って気付いてキャンプを始めた、という話をこの間、聞いたんです。それってすごくいいことだなと思いましたね。ファッションの奥行きとしてキャンプがあるわけで……。だから、最近はそういう人向けにも、キャンプのイベントを組んだりしているんです。いまはユーザー全体の10パーセントくらいが、そっちから入ってこられています。
国見:他にも新たな試みとしては、マンション事業に関わったりもされています。
山井:そうですね。この春、東京の立川市に建った「パークホームズ立川」というマンションでは、三井不動産レジデンシャルさんとコラボレーションしました。マンションって、ご存じのように、上の階の部屋から売れていく傾向があるじゃないですか。1階の部屋は眺望のことや防犯上のことなんかもあって敬遠されることも多くて、少し値段を下げてやっと売れる、という感じです。でも、1階の部屋には専用庭がついていたりするんですよね。それを「野遊び」ができる場所だと捉えて、「半ソト空間」という名前をつけて、アウトドアライフを住居に取り込む提案をしたんです。しかも、強気に上層階と同じ価格で売り出した。そうしたら、なんと上の階の部屋よりも早く、1階が売り切れてしまったんですよ。
他にも、東京の中央区にある「パークタワー晴海」というタワーマンションでは、敷地内にキャンプサイトをプロデュースしたり、アウトドアの要素を取り入れたパーティールームをデザインしたりするだけじゃなく、モデルルームで専有部の内装にキャンプ用品やアウトドアグッズを取り入れた暮らしを提案したりもしています。いわば、マンションの毎日がキャンプ生活ということです。こういう取り組みをいくつかやってみると、僕らが思っている以上に、キャンプには住まいや暮らしをつくるものとしてのニーズがあるのだなと感じます。
国見:キャンプのニーズ、アウトドアのニーズは、オフィスにもあると思うんです。電通の僕らのチームも4年くらい前から、アウトドアオフィスをやっています。多いときだと週に1回。朝から夕方まで、ずっと外のテントの中で打ち合わせをするのですが、それだけで出てくるアイデアの質が全然違うんですよ。
山井:そうでしょ? 僕らも横浜市と一緒に実証実験をしたりしているのですが、午前中は普通にいつものオフィスで会議をやってもらって、午後はやっぱり外に出てスノーピークのテントの中で同じように会議をやってもらうんです。それで会議がどのくらい変わるのかを見るわけですが、質ももちろん変わりますけど、とにかく午前と午後では、働いている人たちの顔の表情が全然違ってしまうんですよ。
国見:それは本当によく分かります。アウトドアオフィスをやると、テントを畳んだ後に、仕事をすることが自分の人生の遊びのひとつになっているという実感が、ものすごく残るんです。だから、キャンプを休日だけのものとしているうちは、週に2日しか人間性の回復ができないのだけど、アウトドアオフィスを取り入れると、それが週7日にまで増える可能性があると思うんですよ。ただ、東京にはテントを立てる場所があまりないのが悩みどころで……。
山井:それでも、屋上でアウトドアオフィスをやったりする企業が増えてきていますよね。
好きなことをやって、社会のためになる
国見:話は変わりますけど、いまスノーピークはグランピング※にも力を入れていますよね。僕も今年の2月に、北海道の十勝でのグランピングに参加させていただきましたが、あれは非常に素晴らしい体験でした。
※グランピング……「魅力的」を意味する「グラマラス」と「キャンピング」からつくれらた造語で、優雅に自然を満喫できるキャンプのこと。
山井:恐らく日本で初めて行われた、本格的な本物のグランピングですね。
国見:でも、どうして冬の十勝なのですか?
山井:2月の十勝に来ませんか、気温はマイナス15度です、と話すと、「極寒」というイメージですよね。そこに魅力的な3日間が繰り広げられるなんて、誰も思わないじゃないですか。十勝の地元の人たちもそうなんですよ。大規模農場が多いので、冬は町全体がほぼ冬眠状態です。よそから人が来て、そんな場所で喜んで過ごすなんて、まったく思いもしない。そこに我々スノーピークが行って、グランピングというプラットフォームを提示して、犬ぞりとか、気球とか、もともとあったものも含めてコンテンツとしてパッケージして発信すると、どうなるか。それをやってみたかったんです。
食材も基本的にはオーガニックなものを使っているし、スノーピークはレストラン事業もやっていますから、そのレベルの料理を冬の十勝で食べてもらえる。そういう我々が持っているリソースを投入して、冬の十勝を豊かなものとして発信してみたわけです。実際に体験してみて、面白かったでしょう?
国見:面白かったし、自分の中での残存期間がすごく長いと感じました。日常に戻っても、ずっと体の中に体験が残っているんです。もちろん、キャンプに行っても近いことは起こるのだけど、グランピングはそれがずっと長いんです。
山井:十勝は本当に豊かな場所ですからね。でも、十勝と白馬は別格だとしても、自然は本来どこでもきれいなんです。東京の近くでも、筑波だってきれいだし。それに、どこの地方にも自然はあります。個性が違っているだけで、条件的にはそんなに変わらない。あとは、それを何とかしよう、生かそう、と思うかどうかなんです。
国見:実際に最近は、地方創生にもかなり力を入れておられますよね。地方のいろんな資産を使いながら、人間性が回復できる場を日本中につくっていこう、と。
山井:いまは全国で30カ所くらいの地方創生に関わっていますね。そもそも僕は、若い頃から、JC(日本青年会議所)やYEG(日本商工会議所青年部)に籍を置いたりして、地元の燕三条の街づくりには随分関わってきたんです。もちろんスノーピークも成長させたいと思っていましたけど、自分たちだけが良くなっても仕方がないじゃないですか。だから、燕三条の全ての産業が発展するように、できることをやろうと思ってやってきたんです。
そういう経験が根っこにあって、さらにスノーピークの活動をいろいろやっていく中で、キャンプをやるとまず個人の人間性が回復されて、次に家族の絆が深まって、コミュニティーができるということが分かってきた。地方創生は、その延長上にあるものだと思うんですよ。コミュニティーが集まったものが地方だと思うので。だから、僕の中では、キャンプから地方創生まで、全部がつながっているんです。
国見:昔、あるイベントでご一緒させていただいたときに、ふと思い立って、「山井さんの経営にロマンはどのくらいの割合を占めているんですか?」と質問したら、迷わず「9割」と答えられましたよね。「ロマンが9割の経営」って初めて聞きましたし、僕はいろんな社長とお仕事をさせていただいていますが、その中でも圧倒的に高い割合です。でも、そのロマンがあるからこそ、本当に大切なことに真っすぐに挑戦できるし、いまおっしゃったような大きな世界を描くこともできるのでしょうね。
山井:好きなことをやっているだけとも言えますけどね。スノーピークはもともと僕の父が創業した会社で、彼はロッククライミングが好きだった。僕はキャンプが好き。で、次の世代のうちの娘はアパレルが大好き。好きなものは違うんですけど、自分たちが好きな領域で仕事をして、それが社会のためになっている。同じことが、スノーピークに参加する誰にでも当てはまるといいなと思います。好きなことをやって、社会のためになるというオープンなプラットフォーム。スノーピークは、そんな会社でありたいですね。
(了)
「アーティスト」と「アートディレクター」の境目はどこにあるのか(後編)
- November / 01 / 2017
自分が関わった作品を「分けない」
舘鼻:こうして改めてお互いの活動を振り返ってみると、かぶってはいないものの、似ているところもありますね。2人ともアーティストなんだけど、デザイナーや、アートディレクターの側面もありますし。
僕でいえば、さっきも話が出ましたけど、いまレストランのクリエーティブディレクションをしていて、ロゴのデザインやフードのディレクション、店内に置かれる彫刻作品の制作や建築デザインまで、全てに関わっています。そこにはアーティストの側面もあり、デザイナーとしての側面もあり、アートディレクターとしての側面もあるわけです。
清川さんにしても、針を持って写真に刺しゅうを施しているときはアーティストだけど、化粧品のパッケージデザインをしているときはデザイナーかもしれないし、広告で使うポスターのディレクションをしているときはアートディレクターですよね。清川さん自身は、そのあたりの境目はどう考えているのですか?
清川:そうですね…。逆に、舘鼻くんがいちばん最初に目指したのは、何だったんですか?
舘鼻:僕はファッションデザイナーを目指していたんです。で、そのときは、自分のファッションブランドがずっと残るようにしたいと思っていました。シャネルとか、カルティエみたいに、本人がいなくなってもブランドは存続するということです。
だけど、2010年のレディー・ガガさんの仕事がきっかけで、方向転換しようと思ったんですよ。作家になろうと思ったんです。どういうことかというと、僕は1985年に生まれて、いずれ何年かに死ぬわけですが、そうしたらそこで僕の時代は終わり、ということ。ファッションブランドだったら、死んでからも残るかもしれないけれど、作家だと舘鼻則孝が死んだら終わり。何年から何年までと区切られますよね。そうやって歴史に足あとを残すことのほうが、自分が求めている生き方に近いなと思うようになったんです。
清川:私はアーティストから始めたわけですけど、作品を見た人が、それをこういうところで使いたいと言ってくれたことで、デザイナーの仕事になっていきました。さらに、ものをつくるだけじゃなく、世界観そのものを表現してほしいと言われて、アートディレクターの仕事になっていったわけですが…、そういう変化が起こったそのときは混乱していましたね。だから、最初は自分の中では、それぞれを分けて活動していたんです。アーティストの作品とデザイナーの作品は違うって。
でも、分けなくてもいいんじゃないか、と最近は思うようになってきています。手を動かしてつくったものはもちろん作品だし、それこそ、いちばん最初は自分で自分を飾って表現していたわけですけど、それも作品だし、たくさんの人たちと一緒につくっていくものも作品だし…。全て自分が関わった作品だから、分ける必要はないんじゃないかと思うんですよ。
それに、いまは個人戦の時代じゃない気がしているんです。分かる人が分かればいい、ということではなくて、やっぱり伝わってこそだし、共有できてこそ、だと思う。何かしら、誰かに感じてもらうことが大切で、それが大きくなれば、みんなで時代をつくっていくようなことにもつながるのかなって。
舘鼻:僕らが生み出す作品は、コミュニケーションツールなんですよね。それを通して、何かを伝えたり、感じてもらったり、共有したりする。そのための装置を生み出している感覚が、僕の中にも非常に強くあります。だから単純に「靴をつくっています」ではなくて、その靴がどういう意味を持つのか、履いてくれた人が何を感じて、何を発信したくなるのか、ということまで考えます。いまこうやってしているおしゃべりも、もちろんコミュニケーションですが、作家にとっては、ものづくりはそれ以上にすごく有用なコミュニケーションの手段ですからね。
清川:本当にそう思います。私たちがしているのは、想像したことを形にして、見ている人にどこか余白を残すような仕事。どうして、ここにこれがあるんだろうとか、何でもいいんですけど、つくったものに触れた人が、余白の部分に何かを感じる。そういうことがすごく大事ですよね。
お客さまとの関係性が原動力
清川:ちなみに、舘鼻くんの原動力は何ですか?
舘鼻:お客さまとのサイクルですね。いまの僕の活動が靴から始まっているということもあるのですが、お客さまがいるということが当たり前なんですよ。だから、どういう作品にするのかも、注文されてから考えます。実際に面と向かって、お客さまと話し合うなかから作品を生み出しますから。
日本ではまだそこまで多くの人たちに履いていただいているわけじゃないんですけど、海外だとアメリカやイギリスなど、いろんなところで僕の靴を履いてくださっている人がいるんです。中には、僕がつくった靴しか履かないといってくださっている人も何人かいて、1回に30足とかオーダーされる。要するに、アーティストとパトロンの関係性です。
そういうお客さまが、わざわざ東京の青山にある僕のアトリエまで来てくれるわけですよ。そこでいろいろと話をして、どういう作品にするかを考えていく。で、出来上がったら、僕は必ず自分でお客さまのところまで届けにいくんです。まあ、そこで新しいオーダーをもらって帰ったりもするのですが(笑)、大体そういうサイクルなんです。でも、このサイクルは1人ではまわらなくて、自分とお客さまとのリレーションシップで成り立っています。その関係性が僕の原動力になっていると思いますね。
清川:私は普段の生活の中で、ニュースを見たりいろんなことをしているときに、必ず何か矛盾を感じるんですよ。自分と何かのギャップとか。それが作品になりやすいですね。
舘鼻:自分の感情は常に変化するわけですけど、それを形にしていくのが作家ですから。作品というツールを通じて、僕らはさまざまな想いを共有しようとしているのでしょうね。
挑戦することは僕らの仕事
舘鼻:あと、実は僕には前からすごく気になっていることがあるので、最後に聞きたいのですが、清川さんはその小さな体で、あれだけたくさんの仕事をしているわけですよね。どうやって時間をつくって仕事をしているのかなって、5年くらい前からずっと思っているんですよ(笑)。実際のところ、どういう毎日を送っているのですか?
清川:私、朝は5時に起きるんです。子どもが起きてしまうということもあるんですけど、もともと早起きなんですよ。起きてすぐ、子どものことをいろいろやって、それからメールをチェックしたりするのですが、いちばんアイデアが浮かんだり、ラフスケッチがはかどったりするのは、その後ですね。
舘鼻:それは何時から何時くらいの話ですか?
清川:自分が飽きるまでやるんですけど、大体、午前中です。アトリエに行くときもあるし、自宅のこともあるのですが、ただアイデアが浮かびやすいのは移動中なんです。そこでふわっといろいろ浮かんで、書き留めるのが次の日の朝、という感じですね。
舘鼻:アイデアが浮かんだときにメモを取るわけじゃないんですか?
清川:メモを取ってもなくしてしまうんですよ、私(笑)。でも、いいアイデアは必ず覚えていますから。
舘鼻:浮かんだアイデアは、割とすぐに作品化するのですか?
清川:そこはうまく言葉にできないのですが、頭の中に構造ができて、プロセスが決まって、ゴールが決まったら、作品にします。自分にしか分からない世界ですけど(笑)。ただ、その頭の中にあるものを周りに伝えるのが大変で…。
舘鼻:ああ、それは分かります。清川さんもそうだし、僕もそうなのですが、チームで動くじゃないですか。いろんな人に関わってもらうわけだから、ビジョンを共有しなくてはいけないのだけど、それを説明するのは大変ですよね。いつも葛藤の連続です。
清川:私もそうです。自分の中のゴールはここなのに、まだここにいる、どうしようって、いつも思っています。しかも、それが何個もあるし…。形にしていくのって、本当に大変ですよね。
舘鼻:とはいえ、こうして実際に会うと、清川さんはすごく優雅な時間を過ごしているように見えるんですよ。いつ忙しくしているのかなと不思議なんですけど、夜中まで仕事をしているのですか?
清川:夜中は必ず寝ています(笑)。5時に起きますから。だから、やっぱり朝ですね。朝の仕事のスピードは本当にすごくて、そこで全て終わらせるというくらいの速さでやっています。
あと、100点でなくてもいい、と思うようにはしていますね。放っておくと、120パーセントのクオリティーを追い求めてしまうほうなので、そのくらいの気持ちでいるのがちょうどいいんです。全てのことに飛び込むわけにはいかないので。さっきもお話ししたように、職人さんに「意味が分からない」と言われながらもアクリルに糸を閉じ込めたりして(笑)、毎回、新しいことに挑戦していますから。
舘鼻:挑戦することは、僕らの仕事ですからね。
清川:さっきも話したように、そこを理解してもらってチームでつくっていくのは本当に大変なんですけど、でも乗り越えて、作品を形にして、新しい世界が広がったときにはすごくうれしいんですよね。だからやめられないのかな、とも思いますけど。
舘鼻:よく分かります。僕のヒールレスシューズにしてもそうですが、実際に体験した感覚が予想していたものと違うと、みんな驚くわけです。そうやって新しい価値観を感じてもらえるような場を提供できたときは、本当にうれしいですよね。
(了)

清川あさみ
アーティスト
淡路島生まれ。2001年に初個展。03年より、写真に刺しゅうを施す手法を用いた作品制作を開始。水戸芸術館や東京・表参道ヒルズでの個展など、展覧会を全国で多数開催。 代表作に「美女採集」「Complex」シリーズ、絵本『銀河鉄道の夜』など。作家、谷川俊太郎氏との共作絵本『かみさまはいる いない?』が 2 年に一度のコングレス(児童書の世界大会)の日本代表に選ばれている。 「ベストデビュタント賞」受賞、VOCA展入賞、「VOGUE JAPAN Women of the Year」受賞、ASIAGRAPHアワード「創(つむぎ)賞」受賞。広告や空間など幅広いジャンルで国内外を問わず活躍している。現在は、福島ビエンナーレ「重陽の芸術祭」において、「智恵子抄」で著名な高村智恵子の生家でのインスタレーションも行っている。

舘鼻則孝
アーティスト
1985年、東京生まれ。歌舞伎町で銭湯「歌舞伎湯」を営む家系に生まれ、鎌倉で育つ。シュタイナー教育に基づく人形作家である母の影響で幼少期から手でものをつくることを覚える。東京藝術大学では絵画や彫刻を学び、後年は染織を専攻する。遊女に関する文化研究とともに日本の伝統的な染色技法である友禅染を用いた着物やげたの制作をする。近年はアーティストとして、国内外の展覧会へ参加する他、伝統工芸士との創作活動にも精力的に取り組んでいる。2016年3月には、カルティエ現代美術財団にて文楽の舞台を初監督し「TATEHANA BUNRAKU : The Love Suicides on the Bridge」を公演した。作品は、ニューヨークのメトロポリタン美術館やロンドンのビクトリア&アルバート博物館など、世界の著名な美術館に永久収蔵されている。
スノーピークの「好きなことをやって、社会のためになる経営」(前編)
- December / 20 / 2017
言いつけを守って「山に登らない」
国見:山井さんとは、もう3年半くらいお仕事でご一緒させていただいていて、これまでにも折に触れていろいろとお話も伺ってきたのですが……、子どもの頃はガキ大将として町の子どもたちを従えていたり、時間があれば近くの川で泳いだりと、本当に好きなことばかりされていたそうですね。ただ、お父さまの言いつけで、山には登られなかったとか。
山井:そうですね。山にはいまも登りません。うちの父はスノーピークの創業者なんですけど、一方で熱心なロッククライマーでもあったんです。毎週のように谷川岳に登りにいくようなヤバい人で(笑)。僕もその父が持っていた山のアルバムを見るのが幼稚園のときから大好きで、小学校に入って字が読めるようになったら、学校の図書館にあった登山家の伝記を全部読んでしまうくらい、山に憧れてはいたんですけどね。
国見:それなのに、山に登らないのですか?
山井:小学4年のときに、自宅の座敷で正座させられて、父に厳しく言われたんです。「お前は山に行かせない」と。きっと自分の命を危険にさらすようなものに魅力を感じる、僕の性格を見抜いていたんですね。その後、僕の興味をそらすように、野球をやれと言い出して、小学5年のときに地元の野球チームに入ってからは、高校まで野球ばっかりやっていました。
国見:でも、いろいろとお話を伺うかぎりだと、山には登らなくても、危険な目には随分遭っておられますよね。
山井:いや、父は本当に正しかったなと思いますよ。僕はフライフィッシングが趣味なんですけど、里川でやるのはあまり好きじゃないんです。危険じゃないから、面白くない(笑)。だから源流に行くんです。しかも滝を3つくらい越えていくような最源流が好きでね。毎年、必ずどこかに行くんですけど、滝つぼには何回か落ちています。ずっと通っているところでも落ちているし、宮崎県の椎葉とか、岩手県の奥のほうでも落ちていますね。
これ、滝つぼだから笑っていられますけど、ロッククライミングだったら1回で死んでいます。そういう意味で、父は正しかったなと思うんですよ。まあ、山には登らないとはいえ、たまにアイゼンを履いたり、ピッケルを持ったりもしているんですけどね(笑)。でも、それもあくまでフライフィッシングのため。一応、言いつけは守っています。
国見:子どもの頃は、いわゆるアウトドアっぽいことはされなかったのですか?
山井:父にはたまにキャンプに連れていってもらいました。米軍払い下げのかび臭いテントを持って。でも、それも山じゃなかったですね。川辺のほうでした。
キャンプは「人間性を回復」してくれる
国見:そのキャンプが自分の人生に欠かせないなと思うようになったのは、いつのことですか?
山井:東京でサラリーマンをしていたときですね。大学も東京だったのですが、卒業して働き始めて2年くらいたったときに、体の調子がおかしくなってきたんです。外資系のブランド商社で営業企画の仕事をしていたのですが、入社したときに、総務部長に「この会社は、1人の新入社員を育てるのに、どのくらい投資するんですか?」と聞いたら、「1億円」と言われてね。そんなわけないんだけど(笑)、もしかしたら父に呼び戻されることもあるかもしれないとは少し思っていたので、それをまず純利益で返そうと考えていたんです。だから、上司から「山井の担当はここだ」と言われても、いらないから、全部新規開拓させてくれ、と申し出て……。
その会社には結局、4年半くらいいたのだけど、その間の1年あたりの売り上げは、僕1人で平均10億円くらい上げていましたね。粗利は50パーセントくらいだから、だいたい純利益が2億円。多分、1年で“貸し借りなし”にはなっていたと思います。ただ、けっこうなハードワーカーだったこともあって、心身に異常を来したみたいで。
国見:そのときにキャンプを思い出したわけですか。
山井:幼少期から高校まで、多分、30回くらい父にキャンプに連れていってもらっているはずなんですけど、回数はいまと比べるとすごく少ないものの、やっぱりそれが僕の中であるベースになっていたんです。切実にキャンプに行きたいな、と思うようになりましたから。
国見:文明社会には、便利なことがたくさんある半面、人間性を損なう側面もありますよね。便利って大切なことなんですけど、人間性を切り捨てているところもありますから。例えばメールにしても、わざわざ手紙を書かなくてよくなった分、効率的だし、労力も軽減されていますが、その裏で、便箋を選ぶドキドキ感とか、文字を1文字ずつ丁寧に書いて思いを込めるというような人間的な部分が捨てられているわけで……。
山井:そうやって失われてしまったものが、キャンプで回復されるのだと思いますね。僕は「人間性の回復」と言っているのですが、実際にキャンプフィールドにいる人たちを見ても、大人も子どもも、みんな幸せそうな顔をしています。家族の絆も深まるし、一人一人が豊かな気持ちでいると、たまたま隣り合った家族がすぐ仲良くなったりもする。キャンプをすれば、1人のユニットとコミュニティーが同じ方向で回復されていくんです。
国見:東京で働いていたときは、ご自身でも人間性が損なわれていると感じられていたのですか?
山井:感じていましたね。
国見:でも、仕事の休みにキャンプに行ったりはされなかった?
山井:行かなかったですね。市販のキャンプ用品に、自分の気持ちにフィットするようなものがなかったから。ダサいやつで行きたくないじゃないですか(笑)。これを使ってキャンプをすれば、豊かな時間が過ごせるというものが、当時はなかったんです。
リスクを先に整理する
国見:お父さまも確か、自分が使いたい登山グッズがないからと、それをつくり始めて創業されたとか。同じ感覚ですね。
山井:そうですね。でも、ちょうどその頃に、父に帰ってこいと言われたんです。サラリーマン3年目くらいのときですが、突然、父から電話がかかってきて、「(帰ってくると)約束したじゃないか」と言う。約束といっても、最後に「家を継げ」と言われたのは、小学6年のときですよ(笑)。それ以来、中学、高校、大学と何も言わなかったから、東京で就職したのだし、もともとスノーピークに入るつもりはなかったんです。
けど、いま話したように、僕自身は東京で働く中で人間性を阻害されていて、もうキャンプをやりたくてしようがなくなっていたし、自分が望むようなキャンプ用品がないこともよく知っていた。だから、父にそう言われたときはすぐに、「帰って、自分が望むかっこいいキャンプ用品をつくって、社内起業するしかない」と思いましたね。
国見:そこでもまた新規の取り組みですか。
山井:そう。当時のスノーピークは、売り上げが5億円くらいで、それほど大きな規模ではなかったのですが、会社はちゃんとまわっていました。そこに自分が加わるわけだから、新たに何か売り上げが立つことをやろうと思ったんです。じゃないと、自分の給料が出ないので。それに、1人で10億円の売り上げを上げていたのに、5億円のパイじゃ面白くないとも思っていたし……。
それで、86年7月にスノーピークに入った後、1年半の間に新商品を100個くらいつくって、カタログもつくって、新しい事業を立ち上げました。商品デザインの考え方のベースになる「スノーピークレイアウトシステム」※を考えたのも、そのときでしたね。
※スノーピークレイアウトシステム……スノーピークが提唱する、あらゆるフィールドで自由自在に美しく快適なアウトドアプロダクトのレイアウトを実現できるシステム。
国見:5億円の売り上げ規模の企業で新規事業を立ち上げるだけでも大変なのに、それを1年半でやったというのは、並大抵のことではありませんよね。
山井:最初の半年は、特にいろいろありましたね。もともと営業企画をやっていたので、商品企画はできますから、スノーピークに入ったときにCADを買って、自分で設計して開発を始めたんです。
で、あるとき、企画した商品を社長である父のところに持っていって「商品化したい」と言ったら、「いくらかかるんだ」と聞かれました。「金型をつくるのに100万円くらいかかる」と答えたら、今度は「いくつ売れるんだ」と聞く。僕は神様じゃないし、そんなの分かるわけないと思ったから「分からない」と答えたんです。そうしたら、「じゃあ、駄目だな」と言われて、それで終わりです。
国見:禅問答みたいですね。普通はメーカーといえば、自分たちでまず商品をつくって、展示会をやって、顧客に来てもらって買ってもらう、というやり方をしますよね。そうではなかったのですか?
山井:少なくとも父は、そういう思考回路じゃなかったですね。別の商品の企画を持っていっても同じで、そういうやりとりを、半年で10回くらいやったんですよ。だから、その次のときは、今度駄目だったら、もう独立して自分で商品化しようと思って、先に顧客のところをまわりました。スノーピークに入ってから、商品を企画する一方で、新規顧客の開拓をして、リレーションをつくってはいたので、予約注文を入れてもらおうと思ったんです。もちろん、もしかしたらまた却下されてしまうかもしれないけど、そうしたら独立して自分でつくるから、と言って、新商品のスケッチを片手に、とりあえず金型を起こす費用分の注文だけは先に集めました。
父のところへは、その注文書の束を上着の内ポケットに入れて、反対側のポケットには辞表を入れて、提案に行きましたね。企画した商品を見せたら、例によって「いくらかかるんだ」と聞いてくる。「金型代で100万円」と答えると、また「いくつ売れるんだ」と言う。そこで注文書の束をたたきつけて、「注文は取れるんだ」と言い返したんです。そうしたら、「何をのんびりしているんだ、早くやれ」と言うんですよ(笑)。ひどいでしょ? でも、それが僕に対する父の帝王教育だったんです。リスクを先に整理しなさい、ということですね。
「自分はスノーピークのファン」
国見:金型代のリスクを、予約注文という裏付けで整理したということですか。そのやり方で、そこから100アイテムつくられたわけですね。
山井:そうです。でも、逆に良かったのは、金型を起こしていないから、お客さんの要望を聞くことができたんですよ。「普通は展示会の案内を手にして、来てくださいと話しにくるのに、お前が持ってくるのはスケッチだもんな。変わってるよな」なんてさんざん言われましたけど(笑)、でもそのスケッチを見ながら、「ここが三角だったら買う」とか「ここがあと10ミリ太いほうがいい」とか、言ってくれるじゃないですか。そうやって一緒に商品をつくっていくことができたおかげで、めちゃくちゃ太いリレーションができたんです。
国見:山井さんはよく、「自分はスノーピークのファンなんだ」という言い方をされますよね。近くで見ていても、社長というよりはユーザーとしてスノーピークに関わっておられる印象があります。だから、これだけ好きなことをやっているのに、「俺がやっている」という感じにならないんだと思うんです。いまのお話もそうですが、社員はもちろん、ユーザーさんも含めて、常にみんなでやっているという感じがしますね。
山井:主語はいつも、「私たちスノーピークは」でありたいとは思っていますね。
国見:そこのところは、働き方を考える上で、すごく大切なことだと思うんです。この数年、働き方改革が話題ですが、ともすると時間管理の話にすり替わってしまいがちです。ただそう捉えてしまうと、議論が本質的でなくなると思うんですよ。
あるデータによれば、本来人間は、忙しくなればなるほど、充実感を覚えるものなんだそうです。でも、ほとんどの場合、仕事が忙しくなると充実感は低下していく。その違いはどこにあるのかというと、関係性だというんです。要するに、一緒に働いている人たちとの関係性がいいほど、忙しくなると充実感が増す。でも、関係性が悪ければ、充実感は低下する。仲のいいクラスでやる学園祭って、楽しいじゃないですか。でも、仲の悪いクラスでやる学園祭ってつまらない。それと似ている気がします。
山井:スノーピークでは、土日はほとんどキャンプのイベントが入っています。毎週ですよ。だから、入社の面接に来る人たちはみんな決まって「キャンプが大好きです」なんて言うのだけど、もし本当はキャンプが好きじゃないのに、うそをついて入社したとしたら、すごく不幸になるんですよ。毎週、毎週、キャンプだから。そうやって自分を偽って入ってきた人は、やっぱり続かないですね。だから念のために、内定者の最終研修は、2月の雪中キャンプにしているんです(笑)。
でも、ちゃんとキャンプが好きな人が残ってくれているおかげで、社員の価値観が共通していて、やりやすいのは事実ですね。それに、いまいろいろとビジネスの幅を広げているんですけど、「キャンパーとして、我々はビジネスをどう変革するか」「キャンパーとして、どう地方創生に関わるか」と、すべて「キャンパーとして」やっていますから、価値観は特に大切なんです。
(了)

山井太
株式会社スノーピーク 代表取締役社長
1959年、新潟県三条市生まれ。明治大学卒業後、外資系商社勤務を経て、86年に父親が創業したヤマコウ(現・スノーピーク)に入社。アウトドア用品の開発に着手し、オートキャンプのブランドを築く。96年から現職、社名をスノーピークに変更。毎年30~60泊をキャンプで過ごすアウトドア愛好家。徹底的にユーザーの立場に立った革新的なプロダクトやサービスを提供し続けている。株式会社スノーピークは14年12月、東証マザーズに上場。15年12月、東証1部に市場変更。

国見昭仁
株式会社電通 ビジネスデザインスクエア未来創造室 室長
1996年、都市銀行に入行。法人向け融資業務を担当した後、広告会社を経て、2004年に電通に入社。10年には、経営者と向き合って企業のあらゆる活動を“アイデア”で活性化させる「未来創造グループ」を立ち上げる。15年からエグゼクティブ・クリエーティブ・ディレクター。化粧品、家電、通信、アパレル、旅行、通販、外食、流通などさまざまな業界において、経営、人事、事業、チャネルなどの広範囲におけるビジネスデザインプロジェクトを多数手掛けている。
地域にいま必要なのは「弱さの強さ」(後編)
- August / 09 / 2017
地域で“落ちこぼれる”人たち
辻:いまの時代は、“自由”になった経済が、逆に社会を呑み込んでしまっていますよね。本当に“経済さまさま”の世の中です。人の生き方ですら、経済学者にお伺いを立てなくてはいけなくなっている(笑)。
でも、そういう考え方では、どうにも折り合いのつかないことが出てくるわけです。その一つが弱い人たちの存在ですね。障害のある人たちもそうだし、他にもいろんな弱さがあります。赤ちゃんも、年を取ることもそうですよ。病気だってそう。僕らは一生を通じて、弱さと付き合いながら生きているんです。だからこそ、人間には家族が必要だし、コミュニティが必要なんですよ。僕は「弱さの強さ」と呼んだりもしているのですが、弱さというでこぼこと何とか折り合いをつけながら生きる仕組みを、人間は進化とともに身に付けてきたんだと思うんです。
逆に言えば、弱さを得たことが、人間が人間へと進化する決定的なポイントになったのではないか、とも考えられる。コミュニティをつくり直していくときには、やっぱりこういうところに戻って考えなくてはいけないと思うんです。そこを踏まえずに、都会で学んだ「勝ち負けがすべて」という価値観を、家庭やコミュニティに持ち込んだら大変なことになるでしょ?
山崎:僕らもそこは気にしていますね。都市部のプロジェクトに関わるときは特にそうで、ワークショップで「10万時間」という数字を見せて注意を促しています。ふつうの人は、だいたい20歳くらいから働きはじめますよね。1日8時間、週に5日間で、それを65歳まで続けると、おおよそ10万時間になるんです。そこで重視されているのは、「素早く」「効率的」「正確」「効果的」「経済的」「緻密」といった価値観。それができない人は、いまの社会だと落ちこぼれのように言われたりもします。
でも、人生は65歳で終わるわけじゃない。その後も続いて、90歳くらいまで生きてしまうような時代です。その間は1日約16時間を家庭や地域で過ごすことになる。しかも週5日ではなく、週7日。その時間の積み重ねがどのくらいになるかというと、これもだいたい10万時間なんです。つまり、20歳から65歳まで働いてきたのと同じ時間を、老後にまだ持っているわけです。
ただ、そこで求められる価値観が、仕事のときとはちょっと違うんですね。「失敗が多い」とか、「そこそこでいい」とか、「煩わしい」とか、「試行錯誤」とか、そういったことが重要になる。そういう価値観で動くから、つながりもできるし、信頼関係も築かれるし、コミュニティのなかでの役割も生まれる。健康だって手に入るわけです。
辻:仕事のときは、「強さの強さ」が求められるけれど、65歳からは、「弱さの強さ」が求められるということかな?
山崎:まさにそうです。だから、地域に「強さの強さ」を持ち込まれると困るんです。ところが、ワークショップをやっていると、プリプリ怒っているおじさんがいたりするんですよ。「9時から始めると言ったじゃないか。もう5分も過ぎてるぞ」とか、「街づくりは何でこんなに進み方が遅いんだ。もっと効率的にやるべきだ」とか。そういう人にかぎって、ワークショップが終わったら、「○○株式会社 元部長」なんて書かれた不思議な名刺を出してきたりするのですが…。
誰かがリーダーになって、強い指導力を発揮して…みたいな進め方が理想だと思っている人も多いのですが、それだと「じゃあ、あの人に任せておこう」と、街づくりが一部の人のものになりがちだし、そもそもその人が倒れたりしたら、動きが止まってしまいます。だから、そんなやり方をしてほしくないんですよ。むしろ、「素早く」「効率的」「正確」「効果的」「経済的」「緻密」みたいな価値観を持ち込まれると、地域ではそっちが落ちこぼれだと言わざるをえない。もっとヨロヨロと進んでほしいんです。あちこちぶつかりながら結束力を高めて、みんなに役割が与えられて、うまくいったら全員で喜ぶ、という構図が欲しい。自分に任せてもらえれば効率的にできます、みたいな考え方は、地域では望ましくないんです。
辻:さっきの話じゃないけれど、もっとゴリラ的であったほうがいいということですね。
山崎:だと思います。だから、10万時間の話をするときは、僕らは「65歳以降の10万時間をどう使うか、考えてください」と投げかけます。ただ、20歳から65歳までの毎日にも、仕事と睡眠以外の時間が8時間ありますから、その積み重ねで実はまだ別に10万時間持っているんです。そこの時間を生かして地域に出てきて、地域の論理というか、ゴリラ的なものを身に付けていったほうがいい。まあ、いまの世の中だと会社ではサル的に戦うしかないのかもしれませんが、それが全てになると、定年退職して地域に出たときに落ちこぼれになるわけですから。
大切なのは、付箋と模造紙を使う“前”
辻:競争原理だ、効率だという都会の考え方の枠組み、つまりはマインドセットを変える必要があるわけですね。
山崎:そう、まさにマインドセットです。そこのところについては、辻さんはよくアインシュタインの言葉を引用されていますよね。
辻:「ある問題を引き起こしたのと同じマインドセットで、その問題を解決することはできない」でしょう? 例えば、3.11の大震災で、ぼくたちは福島の原発事故という巨大な問題を抱え込んだわけです。あるいは、巨大な問題を抱えていたことに気付いたと言ってもいいかもしれない。じゃあ、その問題を解決するにはどうしたらいいんかと言えば、同じマインドセットでそれを解決することはできないんです。なぜなら、そもそもそのマインドセットが問題を引き起こしているわけだから。でも、原発の問題も含めて、ほとんどの場合、僕らはマインドセットそのものをそのままにしておいて、小手先の工夫をやり続けてしまうんですよ。
山崎:福島くらいの問題になると、日本全体を巻き込んだ大きな話ですから、確かにマインドセットを変えづらいところはありますね。でも、地域レベルだと、もう少しスムーズに変えられる可能性があるんじゃないかと思うんです。
例えば、集落から若い人たちが出て行ってしまうという問題を考えるにしても、「やっぱりお金がもうかったほうがいいし、便利なほうがいい」というマインドセットで議論していくと、「じゃあ、うちの街にも有名なカフェチェーンに来てもらおう」とか、「ハンバーガーショップを呼ぼう」とかいう話になりますよね。街が便利になれば、若い人が残ってくれるんじゃないかという発想しか出てこない。
でも、実際はその方向に進めば進むほど、「やっぱり東京のほうがいいな」と若い人たちはますます思うわけですよ。マインドセットを変えて、自分たちにとっての幸せとは何なのかを、もう一度問い直すところから始めないと、本当に価値のあるアイデアは出てこないんです。ワークショップを地域でやるときにも、時間をかけるのはそこのところですね。基本的な考え方の枠組みをまず変えないと、7.5センチ角の付箋に書かれるアイデアがどれも東京にあるようなものにしかなりませんから。要するに、大切なのは付箋と模造紙を使う“前”のところなんです。
ただ、考え方が変わったなと思っていても、1カ月あいだを空けて再び訪れると、また元に戻っていたりするんですよ。それを何度も何度も変えて、ちょうどいいあんばいになってきたかな、というところで意見を出してもらうと、その地域ならではのアイデアになることが多いですね。
地域は「メチャクチャもうかる」
辻:確かに世界の仕組みというのは、とても複雑なんだけど、うまくつくられていて、僕らはいつのまにかいろんなことを信じ込まされていますからね。外から地域に行くと、ふつう、まず起こるのは「金になるかどうか」という反応でしょ?
山崎:マインドセットが変わらないうちは、地域でもいろいろな反応が出ます。「こんな考え方では食べていけない!」みたいに。大学の教員をしていると、公的な委員会みたいなところに呼ばれることもあるのですが、そんな席でも、「山崎さんのやっておられる街づくりは、大変意義があるのは分かるけれど、もうかりませんよね」と同情のような声を掛けられることもよくあります。
最近はそこで、「メチャクチャもうかりますよ」と答えることにしているのですが、ものすごくびっくりされますね(笑)。でも、うそじゃないんです。お金のもうけももちろんありますが、地域に行くことで友達や先輩ができたりと、いろんな“もうけ”がありますから。
辻:“もうけ”という言葉の意味を拡張しちゃうんですね。
山崎:ええ。例えば、僕はこれまで約250の地域に関わっていて、それぞれ100人規模のワークショップをやっていますから、単純に考えると2万5千人くらいの人と交流してきています。そのなかには「食えなくなったら、うちに来いよ」なんて言ってくれる人も少なからずいて、それだけでも心穏やかに暮らせる。これも一種のもうけですよね。
それだけじゃない。関わったなかには、うちの事務所に季節ごとにいろんなモノを送ってくださる人もいます。新米がとれたからと、80キロの米が届いたり…。それももちろんもうけです。他にも地域に行くと、その土地の歴史をはじめ、いろいろなことを教えてもらえます。僕の場合はそれが本を書くときのヒントになったりもしている。これももうけ。あとは何といっても感謝の言葉ですね。地域の人たちから「来てくれて、ありがとう。助かったよ」なんて言ってもらえると、達成感も、満足感も上がる。素晴らしいもうけですよ。こういうものを含めて考えると、僕らの仕事は本当にぼろもうけなんです。
本当の豊かさは時間にある
辻:山崎さんの話を聞いていると、これまでは、都会にいたほうが世界とつながることができるという感じが強かったのに、いまはまったく逆になってきているということがよくわかりますよ。実際に僕も世界のいろんなところを訪れて肌で感じているのですが、さまざまな新しい価値観があちこちの地域で動きはじめています。何かを奪いとって得をしたとか、金がもうかったとかという側面がないとは言わないけれど、それだけではない価値観を持った人たちが、けっこう豊かな人生をそれぞれの場所で生きはじめているんです。
きょうのテーマでもある「地域の唯一無二」ということで言うと、昔は「一村一品」みたいに、自分のところにしかないモノをつくったり、売ったりしようと考えたじゃないですか。でも、本当は、そういうことじゃないと思うんです。ある意味ではどこにでもあるのだけど、そのどこにでもあるものをこんなふうに活かして生きているというところに、本当の唯一無二がある。昔、沖縄の人たちが言っていたみたいに、自分たちのいるところが世界の中心だという感覚のことなんじゃないかなと思うんです。中心がどこか他の遠いところにあるということじゃなくて。
山崎:先日、秋田県の大潟村に行ったときに、僕もそれに近いことを感じました。あそこは住民がみんな農業をやっているから、時間の感覚がそろっているんです。だから、農作業に支障がなければ、平日の昼間でも、思い立ったときにみんなで示し合わせて遊びに行ったりできる。水やりは午後2時からだけど、30分遅れたせいで稲が怒っていた、みたいなことはないから(笑)、ある程度、融通も利きますし…。彼らはそういう時間の捉え方や使い方を「大潟時間」と呼んでいたのですが、それはやっぱり唯一無二の価値ですよね。「きょうは天気がいいから、ランチを食べたら山に行くことにしよう」なんて、東京じゃ絶対にできないわけですから。ああいう時間の使い方は本当にリッチですよ。
辻:僕は奥会津に行ったときにすごく感動したのは、冬には冬の豊かな時間があることです。雪国の冬って、「何もない」と外の人は思いがちだけど、実は冬のほうがいろんなお祭りや儀礼があったりする。小正月には、道具を全部出して「道具の年越し」をしたり、地域の付き合いも濃密だし、時間の過ごし方が丁寧でリッチなんですよ。それに比べると、都会人はずいぶん時間というものに疎くなってしまいました。『スロー・イズ・ビューティフル』という本は、そこに気付いてもらおうと思って書いたのだけど、15年経ってもあまり世の中が変わったとは思えません。むしろ悪くなっているかもしれない。
本当の豊かさは、やっぱり時間にあると思うんですよ。人生のなかで真に自分のものだと言えるのって時間だけでしょう? その時間をどうやって過ごすのか。僕らが大切にしなくちゃいけないのは、そこですね。
(了)

辻信一
文化人類学者・明治学院大学国際学部教授
1999年にNGO「ナマケモノ倶楽部」を設立。以来、「スローライフ」、「100万人のキャンドルナイト」、「GNH(国民総幸福)」などの環境=文化運動を提唱。2014年、「ゆっくり小学校」を開校。著書に『スロー・イズ・ビューティフル 遅さとしての文化』(平凡社ライブラリー)、『弱虫でいいんだよ』(ちくまプリマー新書)など多数。映像作品にDVDシリーズ『アジアの叡智』(現在6巻)がある。本年11月11~12日には「『しあわせの経済』世界フォーラム2017~Local is Beautiful!」を都内で開催する。 http://economics-of-happiness-japan.org/

山崎亮
studio-L代表/東北芸術工科大学教授(コミュニティデザイン学科長)/慶應義塾大学特別招聘教授
東北芸術工科大学教授(コミュニティデザイン学科長)。慶應義塾大学特別招聘教授。1973年、愛知県生まれ。大阪府立大学大学院および東京大学大学院修了。博士(工学)。建築・ランドスケープ設計事務所を経て、2005年にstudio-Lを設立。地域の課題を地域に住む人たちが解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりのワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、市民参加型のパークマネジメントなどに関するプロジェクトが多い。著書に『ふるさとを元気にする仕事(ちくまプリマー新書)』、『コミュニティデザインの源流 イギリス篇』(太田出版)、『縮充する日本 「参加」が創り出す人口減少社会の希望』(PHP新書)、『地域ごはん日記』(パイ インターナショナル)などがある。
「アーティスト」と「アートディレクター」の境目はどこにあるのか(前編)
- November / 01 / 2017
何かを感じ取ってもらうには客観視が大切
舘鼻:清川さんと初めて会ったのは、確か4年か、5年くらい前でしたよね。シャネルのオートクチュールのショーで、たまたま席が隣になって…。それからは、いわゆるアーティスト友だちとして、お互いの展覧会に遊びに行ったり、来てもらったりしていますけど、まだ一緒に仕事をしたことはないし、なぜかあまりオフィシャルなところで関わることはなかったですね。
清川:そういえば、そうですね。こういう場でお話しするのも初めてですね。
舘鼻:だからこそ、今日は改めていろいろと聞いてみようと思っているのですが…(笑)、まず、清川さんといえば、写真に刺しゅうを施した作品がよく知られています。あれはいつ頃から始めたのですか?
清川:2003年くらいからです。当時は複製できないものに興味があって、いろいろと表現の可能性を模索していたんです。そうしたらある日、1枚の写真の上に糸が落ちているのを見かけて…。縫ってみよう、と思ったのがきっかけです。
舘鼻:学生の頃は何を?
清川:文化服装学院でアパレルデザインを専攻していました。でも、読者モデルみたいなこともしていたし、編集者と一緒に雑誌のページをつくったり、企画を提案したりもしていて、忙しい学生でしたね。
舘鼻:自分が被写体として表に出たりもしつつ、同時にディレクションしたり、プロデュースしたりもしていた、ということですか。周りのファッションデザイナーを目指している子たちとは、動き方が違っていたでしょう?
清川:全然違っていましたね。違いすぎて迷った時期もあったんですけど(笑)、そのまま活動を続けていたら、あるギャラリーに声を掛けてもらって、2001年に個展をやることになったんです。もともと卒業したらモデルの仕事は辞めようと思っていたのですが、ちょうどその頃から、CDジャケットをはじめ、デザインの仕事の依頼も来るようになって…。ギャラリーを中心に作品を発表しながら、一方で商業ベースの仕事も始めて、そこからはものづくり一本です。

「女である故に」 ©︎AsamiKiyokawa
舘鼻:ディレクションしてものをつくっていく仕事と、アーティストとして作品をつくっていく活動とは、似ているようで違いますよね。割と最初から両立できていたのですか?
清川:う〜ん、気付いてみたらそうだったという感じですね。ただ、学生の頃に自分がメディアに出たり、企画に関わったりしていたことも含めて、表と裏がよく見える立場にいることは、特にアーティスト活動に役立っているとは思います。例えば、普通ならメディアでは、女性のキラキラした表の部分だけを見せますよね。でも女性って、裏ではみんなコンプレックスを持っていて、本当はそれがすごく素敵だったりします。ずっと私が続けている「美女採集」(※)のシリーズも、そういう表と裏が見通せたからこそ始めたものでしたから。
※「美女採集」……美女の写真に刺しゅうなどによる装飾を施し、それぞれのイメージに合わせた動植物に変身させるシリーズ作品。
舘鼻:確かにあのシリーズは、一般に「こうだ」と思われている女優さんたちのイメージとは、ちょっと違った内面のようなものが見えてきて面白いですよね。それが清川さんの手の痕跡を残しつつ、表現されているのも興味深いし。“採集”されている女優さんの中には、あの企画で初めて会った人もいるのですか?
清川:むしろ、会ったことのない人を選んでいます。会ったことがあると、コンセプトが優しくなってしまうかなと思って。それに、そのとき世の中で輝いている美女を捕まえて標本にしているのは私ですけど、見る人にそこから何かを感じ取ってもらおうと思ったら、やっぱり客観視することが大切なので。
舘鼻:なるほど。分析はどうやって?
清川:全部、自分で調べます。リサーチ魔ですから(笑)。でも、映像を見れば、大体性格が分かります。この人はこうだなって。それを書き出していって、読み解いて、動植物に例えているんです。例えば、夏木マリさんだと、行動とか佇まいとかが、全て形状記憶されているような印象がありますよね。ずっと残り続けていきそうな。そういうイメージからアンモナイト。いま大人気の吉岡里帆ちゃんなら、いろんなものに巻きついて栄養を取り入れて、どんどん成長していく感じがアサガオかなと。橋本マナミさんは、ニシツノメドリですね。オレンジのくちばしを持った鳥で、一度にたくさんの魚を捕る。多くのものを一気に手に入れたいという積極的なところとか、そのための努力とかが橋本さんには見える気がして。

「美女採集」<吉岡里帆×朝顔> ©︎AsamiKiyokawa
舘鼻:あれだけたくさんの人を作品にしていると、モチーフがかぶったりしそうですけど……。
清川:いままで200人以上採集していますが、かぶったことはないですね。人の個性って、そのくらい多様なんだと思うんです。それに作品にしたくなるのは、その中でも面白い人ですから。この人、いいな、妖しいな、と思うような魅力のある人。これは「美女採集」だけの話ではありませんが、男性も女性も、経験とか年齢とかを重ねた人のほうが作品にはしやすいですね。
日本の工芸品は「用途のある芸術」だから
清川:ところで、舘鼻くんのデビューはいつなんですか?
舘鼻:いわゆる「世に知られるようになったきっかけ」ということで言えば、2009年につくっていた大学の卒業制作の作品ですね。清川さんもご存じのヒールレスシューズというかかとのない靴なのですが、それを2010年にレディー・ガガさんが日本のテレビ番組で履いて、僕のこともそこで話してくれたんです。それからしばらくは、レディー・ガガ専属のシューズメーカーとして、彼女としか仕事をしていなかったんですよ。もう、レディー・ガガさんのために人生を捧げているというくらい(笑)。

ヒールレスシューズ ©︎ NORITAKA TATEHANA, 2017
清川:初めて舘鼻くんと会ったときも、そんな感じでしたっけ?
舘鼻:たぶん、そうだったと思いますよ。ただ、僕自身は、別に靴をつくりたかったわけではないんです。僕は東京藝術大学の工芸科で染織を専攻してきていて、日本のファッションというべき着物や下駄について勉強したり、花魁(おいらん)の研究をしたりしながら、より新しい価値観が感じられる作品をつくりたいと思っていたんです。あのヒールレスシューズも花魁の高下駄から着想を得ました。
清川:私も花魁は大好きです。
舘鼻:彼女たちは江戸時代のファッションリーダーだったんですよね。いまストリートからファッションが発信されるといわれるのと同じで、当時は吉原の遊女の格好とか、メークとかが、江戸の町娘たちに取り入れられてはやったりしていたんです。皇室のような高貴なファッションももちろんあったわけですが、そういう高尚なものだけじゃなくて、不健全だからこそファッションになったようなところがあった。僕はそこに魅力を感じて、いくつも遊女に関わる作品をつくったりしています。例えば、ステンレスの大きなかんざしのオブジェとか。もともと日本の工芸品は「用途のある芸術」です。でも、いまは普段からそういうものを使っているわけじゃない。かんざしなんて、現代の人はあまり使いませんよね。そういう「用途のある芸術」から用途を取り去ったら、見る人にどういう感覚が芽生えるのか。彫刻として見たらどうなのか、という実験的な作品なんです。
清川:でも、ヒールレスシューズは、意外なくらいに履きやすいですよね。2012年に「VOGUE JAPAN Women of the Year」を受賞したときに、授賞式で履いて登壇させてもらいましたけど……。
舘鼻:日本の美術って、やっぱり工芸じゃないですか。いまも話したように、用途があって、それを満たしてこそという部分があるわけです。だから、かんざしのように昔からあるものをどうにかするのではなく、現代に新たに工芸品を生み出すのであれば、それはしっかりと使えるものであるべきだし、靴なら履きやすくて、歩けなくちゃいけない。そう思ってつくってはいますね。

かんざし ©︎ NORITAKA TATEHANA, 2017 Photo by GION
毎回のように新しい手法を開発する
清川:舘鼻くんは、他にもいろんな活動をされていますよね。少し前には文楽(※)にも関わっていたでしょう?
※文楽……浄瑠璃と人形によって演じる人形劇である人形浄瑠璃のうち、大阪を本拠とするもの。
舘鼻:パリのカルティエ現代美術財団で公演した「TATEHANA BUNRAKU : The Love Suicides on the Bridge」ですね。僕は監督を務めたんです。といっても、舞台美術もつくったり、演出もしたりと、いろんな作業に携わりましたけど。
清川:どういう経緯で公演をやることになったのですか?
舘鼻:フランスではもともと人形劇が盛んで、最初はフランスの人形劇の監督をしてみないか、というオファーをもらったんです。でも、日本にも人形浄瑠璃がありますから、どうせだったら、それを世界へ持っていきたいなと思ったんですよ。その提案を、カルティエ現代美術財団が受け止めてくれたんです。

文楽 ©︎ NORITAKA TATEHANA, 2017 Photo by GION
清川:準備が大変そうでしたよね。その時期は、なかなか連絡がつかなかったから…。
舘鼻:公演は2日間だけだったのですが、30人くらい連れて、日本から行きましたからね。一部は向こうで制作しましたし…。パリにアトリエを借りて、そこでチームと仕上げをしつつ、舞台を組み上げていったんです。
そういうところも含めて、あの公演は日本の世界観の世界への輸出のようなものでもあったのですが、日本とフランスは、歴史的な成り立ちとか、文化的な側面で似ているところもあるからか、現地の人たちには割とスムーズに受け入れられた気がします。ただ、同じことをニューヨークでやったらどうなるのかな、とは思いますね。パリでやったような心中の物語は、日本独自の死生観では文字通りのバッドエンドではないのだけど、アメリカ人はたぶん、もっとストレートに受け止めるでしょう? 今度はそこに切り込んでみたいなとは思っています。
清川:最近はレストランのクリエーティブディレクションもしているんでしょう? 本当に幅が広がってきていますね。
舘鼻:いや、でも、僕はまだ大学を卒業してから7年くらいしか活動していないんですよ。しかも前半はヒールレスシューズをつくるブランドとして活動していたわけですから、まだこれからです。
幅が広いという意味では、清川さんの活動は本当に多岐にわたっていますよね。CDジャケットのデザインをしたり、化粧品のパッケージデザインをしたり、広告のディレクションをしたり…。この間は、NHKの朝の連続テレビ小説の仕事もされていたでしょう?
清川:『べっぴんさん』(※)ですね。オープニング映像やメインビジュアルなどを手掛けていました。
※『べっぴんさん』……2016年10月から2017年4月にかけて放送されたNHK「連続テレビ小説」。子ども服を中心とするアパレルメーカー・ファミリアの創業者をモデルに、戦後の時代を生きる女性の姿が描かれた。
舘鼻:アーティストとしての活動も、さっき聞いた写真に刺しゅうを施す作品にしてもいろんなシリーズがあるし、絵本だって何冊も手掛けられていて…。本当にさまざまな表現をされていますよね。
清川:そうですね。光の彫刻をつくったりもしているし、いろんな手法を毎回、試行錯誤しながら開発しています。例えば、最近だと「1:1」という作品があるのですが、あれを実現させるのは、すごく苦労しました。

「Ⅰ:Ⅰ」<1月24日 Jan.24> ©︎AsamiKiyokawa
舘鼻:Instagramの写真を使った作品でしたよね。
清川:そうです、そうです。いまの時代って、特にSNSなどで自分が見ている世界は、実はたくさんのレイヤーでできているんじゃないかと私は思っていて、うそも本当も、見ている世界に全部隠れている気がするんです。そのことは1枚の写真にもいえるんじゃないかと思って…。それをどう表現しようかと考えたときに、あの手法を思いついたんです。
舘鼻:僕も実際に作品を拝見しましたけど、こんなの見たことがないと思いました。あれはどういう作業工程なんですか?
清川:詳しいことは秘密なんですけど(笑)、私がスマホで撮った写真をネガとポジに変換したものを、たくさん並べた糸に1本ずつ交互に転写して、それをアクリルの中に閉じ込めているんです。作業を進めていくときに職人さんに「こういうことをやりたい」と言ったら、最初は「やったことがないから」となかなか理解してもらえませんでしたが、最後は、面白いから一緒につくっていこうと協力していただけました。

清川あさみ
アーティスト
淡路島生まれ。2001年に初個展。03年より、写真に刺しゅうを施す手法を用いた作品制作を開始。水戸芸術館や東京・表参道ヒルズでの個展など、展覧会を全国で多数開催。 代表作に「美女採集」「Complex」シリーズ、絵本『銀河鉄道の夜』など。作家、谷川俊太郎氏との共作絵本『かみさまはいる いない?』が 2 年に一度のコングレス(児童書の世界大会)の日本代表に選ばれている。 「ベストデビュタント賞」受賞、VOCA展入賞、「VOGUE JAPAN Women of the Year」受賞、ASIAGRAPHアワード「創(つむぎ)賞」受賞。広告や空間など幅広いジャンルで国内外を問わず活躍している。現在は、福島ビエンナーレ「重陽の芸術祭」において、「智恵子抄」で著名な高村智恵子の生家でのインスタレーションも行っている。

舘鼻則孝
アーティスト
1985年、東京生まれ。歌舞伎町で銭湯「歌舞伎湯」を営む家系に生まれ、鎌倉で育つ。シュタイナー教育に基づく人形作家である母の影響で幼少期から手でものをつくることを覚える。東京藝術大学では絵画や彫刻を学び、後年は染織を専攻する。遊女に関する文化研究とともに日本の伝統的な染色技法である友禅染を用いた着物やげたの制作をする。近年はアーティストとして、国内外の展覧会へ参加する他、伝統工芸士との創作活動にも精力的に取り組んでいる。2016年3月には、カルティエ現代美術財団にて文楽の舞台を初監督し「TATEHANA BUNRAKU : The Love Suicides on the Bridge」を公演した。作品は、ニューヨークのメトロポリタン美術館やロンドンのビクトリア&アルバート博物館など、世界の著名な美術館に永久収蔵されている。

山井太
株式会社スノーピーク 代表取締役社長
1959年、新潟県三条市生まれ。明治大学卒業後、外資系商社勤務を経て、86年に父親が創業したヤマコウ(現・スノーピーク)に入社。アウトドア用品の開発に着手し、オートキャンプのブランドを築く。96年から現職、社名をスノーピークに変更。毎年30~60泊をキャンプで過ごすアウトドア愛好家。徹底的にユーザーの立場に立った革新的なプロダクトやサービスを提供し続けている。株式会社スノーピークは14年12月、東証マザーズに上場。15年12月、東証1部に市場変更。

国見昭仁
株式会社電通 ビジネスデザインスクエア未来創造室 室長
1996年、都市銀行に入行。法人向け融資業務を担当した後、広告会社を経て、2004年に電通に入社。10年には、経営者と向き合って企業のあらゆる活動を“アイデア”で活性化させる「未来創造グループ」を立ち上げる。15年からエグゼクティブ・クリエーティブ・ディレクター。化粧品、家電、通信、アパレル、旅行、通販、外食、流通などさまざまな業界において、経営、人事、事業、チャネルなどの広範囲におけるビジネスデザインプロジェクトを多数手掛けている。
「アーティスト」と「アートディレクター」の境目はどこにあるのか(後編)
- November / 01 / 2017
自分が関わった作品を「分けない」
舘鼻:こうして改めてお互いの活動を振り返ってみると、かぶってはいないものの、似ているところもありますね。2人ともアーティストなんだけど、デザイナーや、アートディレクターの側面もありますし。
僕でいえば、さっきも話が出ましたけど、いまレストランのクリエーティブディレクションをしていて、ロゴのデザインやフードのディレクション、店内に置かれる彫刻作品の制作や建築デザインまで、全てに関わっています。そこにはアーティストの側面もあり、デザイナーとしての側面もあり、アートディレクターとしての側面もあるわけです。
清川さんにしても、針を持って写真に刺しゅうを施しているときはアーティストだけど、化粧品のパッケージデザインをしているときはデザイナーかもしれないし、広告で使うポスターのディレクションをしているときはアートディレクターですよね。清川さん自身は、そのあたりの境目はどう考えているのですか?
清川:そうですね…。逆に、舘鼻くんがいちばん最初に目指したのは、何だったんですか?
舘鼻:僕はファッションデザイナーを目指していたんです。で、そのときは、自分のファッションブランドがずっと残るようにしたいと思っていました。シャネルとか、カルティエみたいに、本人がいなくなってもブランドは存続するということです。
だけど、2010年のレディー・ガガさんの仕事がきっかけで、方向転換しようと思ったんですよ。作家になろうと思ったんです。どういうことかというと、僕は1985年に生まれて、いずれ何年かに死ぬわけですが、そうしたらそこで僕の時代は終わり、ということ。ファッションブランドだったら、死んでからも残るかもしれないけれど、作家だと舘鼻則孝が死んだら終わり。何年から何年までと区切られますよね。そうやって歴史に足あとを残すことのほうが、自分が求めている生き方に近いなと思うようになったんです。
清川:私はアーティストから始めたわけですけど、作品を見た人が、それをこういうところで使いたいと言ってくれたことで、デザイナーの仕事になっていきました。さらに、ものをつくるだけじゃなく、世界観そのものを表現してほしいと言われて、アートディレクターの仕事になっていったわけですが…、そういう変化が起こったそのときは混乱していましたね。だから、最初は自分の中では、それぞれを分けて活動していたんです。アーティストの作品とデザイナーの作品は違うって。
でも、分けなくてもいいんじゃないか、と最近は思うようになってきています。手を動かしてつくったものはもちろん作品だし、それこそ、いちばん最初は自分で自分を飾って表現していたわけですけど、それも作品だし、たくさんの人たちと一緒につくっていくものも作品だし…。全て自分が関わった作品だから、分ける必要はないんじゃないかと思うんですよ。
それに、いまは個人戦の時代じゃない気がしているんです。分かる人が分かればいい、ということではなくて、やっぱり伝わってこそだし、共有できてこそ、だと思う。何かしら、誰かに感じてもらうことが大切で、それが大きくなれば、みんなで時代をつくっていくようなことにもつながるのかなって。
舘鼻:僕らが生み出す作品は、コミュニケーションツールなんですよね。それを通して、何かを伝えたり、感じてもらったり、共有したりする。そのための装置を生み出している感覚が、僕の中にも非常に強くあります。だから単純に「靴をつくっています」ではなくて、その靴がどういう意味を持つのか、履いてくれた人が何を感じて、何を発信したくなるのか、ということまで考えます。いまこうやってしているおしゃべりも、もちろんコミュニケーションですが、作家にとっては、ものづくりはそれ以上にすごく有用なコミュニケーションの手段ですからね。
清川:本当にそう思います。私たちがしているのは、想像したことを形にして、見ている人にどこか余白を残すような仕事。どうして、ここにこれがあるんだろうとか、何でもいいんですけど、つくったものに触れた人が、余白の部分に何かを感じる。そういうことがすごく大事ですよね。
お客さまとの関係性が原動力
清川:ちなみに、舘鼻くんの原動力は何ですか?
舘鼻:お客さまとのサイクルですね。いまの僕の活動が靴から始まっているということもあるのですが、お客さまがいるということが当たり前なんですよ。だから、どういう作品にするのかも、注文されてから考えます。実際に面と向かって、お客さまと話し合うなかから作品を生み出しますから。
日本ではまだそこまで多くの人たちに履いていただいているわけじゃないんですけど、海外だとアメリカやイギリスなど、いろんなところで僕の靴を履いてくださっている人がいるんです。中には、僕がつくった靴しか履かないといってくださっている人も何人かいて、1回に30足とかオーダーされる。要するに、アーティストとパトロンの関係性です。
そういうお客さまが、わざわざ東京の青山にある僕のアトリエまで来てくれるわけですよ。そこでいろいろと話をして、どういう作品にするかを考えていく。で、出来上がったら、僕は必ず自分でお客さまのところまで届けにいくんです。まあ、そこで新しいオーダーをもらって帰ったりもするのですが(笑)、大体そういうサイクルなんです。でも、このサイクルは1人ではまわらなくて、自分とお客さまとのリレーションシップで成り立っています。その関係性が僕の原動力になっていると思いますね。
清川:私は普段の生活の中で、ニュースを見たりいろんなことをしているときに、必ず何か矛盾を感じるんですよ。自分と何かのギャップとか。それが作品になりやすいですね。
舘鼻:自分の感情は常に変化するわけですけど、それを形にしていくのが作家ですから。作品というツールを通じて、僕らはさまざまな想いを共有しようとしているのでしょうね。
挑戦することは僕らの仕事
舘鼻:あと、実は僕には前からすごく気になっていることがあるので、最後に聞きたいのですが、清川さんはその小さな体で、あれだけたくさんの仕事をしているわけですよね。どうやって時間をつくって仕事をしているのかなって、5年くらい前からずっと思っているんですよ(笑)。実際のところ、どういう毎日を送っているのですか?
清川:私、朝は5時に起きるんです。子どもが起きてしまうということもあるんですけど、もともと早起きなんですよ。起きてすぐ、子どものことをいろいろやって、それからメールをチェックしたりするのですが、いちばんアイデアが浮かんだり、ラフスケッチがはかどったりするのは、その後ですね。
舘鼻:それは何時から何時くらいの話ですか?
清川:自分が飽きるまでやるんですけど、大体、午前中です。アトリエに行くときもあるし、自宅のこともあるのですが、ただアイデアが浮かびやすいのは移動中なんです。そこでふわっといろいろ浮かんで、書き留めるのが次の日の朝、という感じですね。
舘鼻:アイデアが浮かんだときにメモを取るわけじゃないんですか?
清川:メモを取ってもなくしてしまうんですよ、私(笑)。でも、いいアイデアは必ず覚えていますから。
舘鼻:浮かんだアイデアは、割とすぐに作品化するのですか?
清川:そこはうまく言葉にできないのですが、頭の中に構造ができて、プロセスが決まって、ゴールが決まったら、作品にします。自分にしか分からない世界ですけど(笑)。ただ、その頭の中にあるものを周りに伝えるのが大変で…。
舘鼻:ああ、それは分かります。清川さんもそうだし、僕もそうなのですが、チームで動くじゃないですか。いろんな人に関わってもらうわけだから、ビジョンを共有しなくてはいけないのだけど、それを説明するのは大変ですよね。いつも葛藤の連続です。
清川:私もそうです。自分の中のゴールはここなのに、まだここにいる、どうしようって、いつも思っています。しかも、それが何個もあるし…。形にしていくのって、本当に大変ですよね。
舘鼻:とはいえ、こうして実際に会うと、清川さんはすごく優雅な時間を過ごしているように見えるんですよ。いつ忙しくしているのかなと不思議なんですけど、夜中まで仕事をしているのですか?
清川:夜中は必ず寝ています(笑)。5時に起きますから。だから、やっぱり朝ですね。朝の仕事のスピードは本当にすごくて、そこで全て終わらせるというくらいの速さでやっています。
あと、100点でなくてもいい、と思うようにはしていますね。放っておくと、120パーセントのクオリティーを追い求めてしまうほうなので、そのくらいの気持ちでいるのがちょうどいいんです。全てのことに飛び込むわけにはいかないので。さっきもお話ししたように、職人さんに「意味が分からない」と言われながらもアクリルに糸を閉じ込めたりして(笑)、毎回、新しいことに挑戦していますから。
舘鼻:挑戦することは、僕らの仕事ですからね。
清川:さっきも話したように、そこを理解してもらってチームでつくっていくのは本当に大変なんですけど、でも乗り越えて、作品を形にして、新しい世界が広がったときにはすごくうれしいんですよね。だからやめられないのかな、とも思いますけど。
舘鼻:よく分かります。僕のヒールレスシューズにしてもそうですが、実際に体験した感覚が予想していたものと違うと、みんな驚くわけです。そうやって新しい価値観を感じてもらえるような場を提供できたときは、本当にうれしいですよね。
(了)

清川あさみ
アーティスト
淡路島生まれ。2001年に初個展。03年より、写真に刺しゅうを施す手法を用いた作品制作を開始。水戸芸術館や東京・表参道ヒルズでの個展など、展覧会を全国で多数開催。 代表作に「美女採集」「Complex」シリーズ、絵本『銀河鉄道の夜』など。作家、谷川俊太郎氏との共作絵本『かみさまはいる いない?』が 2 年に一度のコングレス(児童書の世界大会)の日本代表に選ばれている。 「ベストデビュタント賞」受賞、VOCA展入賞、「VOGUE JAPAN Women of the Year」受賞、ASIAGRAPHアワード「創(つむぎ)賞」受賞。広告や空間など幅広いジャンルで国内外を問わず活躍している。現在は、福島ビエンナーレ「重陽の芸術祭」において、「智恵子抄」で著名な高村智恵子の生家でのインスタレーションも行っている。

舘鼻則孝
アーティスト
1985年、東京生まれ。歌舞伎町で銭湯「歌舞伎湯」を営む家系に生まれ、鎌倉で育つ。シュタイナー教育に基づく人形作家である母の影響で幼少期から手でものをつくることを覚える。東京藝術大学では絵画や彫刻を学び、後年は染織を専攻する。遊女に関する文化研究とともに日本の伝統的な染色技法である友禅染を用いた着物やげたの制作をする。近年はアーティストとして、国内外の展覧会へ参加する他、伝統工芸士との創作活動にも精力的に取り組んでいる。2016年3月には、カルティエ現代美術財団にて文楽の舞台を初監督し「TATEHANA BUNRAKU : The Love Suicides on the Bridge」を公演した。作品は、ニューヨークのメトロポリタン美術館やロンドンのビクトリア&アルバート博物館など、世界の著名な美術館に永久収蔵されている。
スノーピークの「好きなことをやって、社会のためになる経営」(前編)
- December / 20 / 2017
言いつけを守って「山に登らない」
国見:山井さんとは、もう3年半くらいお仕事でご一緒させていただいていて、これまでにも折に触れていろいろとお話も伺ってきたのですが……、子どもの頃はガキ大将として町の子どもたちを従えていたり、時間があれば近くの川で泳いだりと、本当に好きなことばかりされていたそうですね。ただ、お父さまの言いつけで、山には登られなかったとか。
山井:そうですね。山にはいまも登りません。うちの父はスノーピークの創業者なんですけど、一方で熱心なロッククライマーでもあったんです。毎週のように谷川岳に登りにいくようなヤバい人で(笑)。僕もその父が持っていた山のアルバムを見るのが幼稚園のときから大好きで、小学校に入って字が読めるようになったら、学校の図書館にあった登山家の伝記を全部読んでしまうくらい、山に憧れてはいたんですけどね。
国見:それなのに、山に登らないのですか?
山井:小学4年のときに、自宅の座敷で正座させられて、父に厳しく言われたんです。「お前は山に行かせない」と。きっと自分の命を危険にさらすようなものに魅力を感じる、僕の性格を見抜いていたんですね。その後、僕の興味をそらすように、野球をやれと言い出して、小学5年のときに地元の野球チームに入ってからは、高校まで野球ばっかりやっていました。
国見:でも、いろいろとお話を伺うかぎりだと、山には登らなくても、危険な目には随分遭っておられますよね。
山井:いや、父は本当に正しかったなと思いますよ。僕はフライフィッシングが趣味なんですけど、里川でやるのはあまり好きじゃないんです。危険じゃないから、面白くない(笑)。だから源流に行くんです。しかも滝を3つくらい越えていくような最源流が好きでね。毎年、必ずどこかに行くんですけど、滝つぼには何回か落ちています。ずっと通っているところでも落ちているし、宮崎県の椎葉とか、岩手県の奥のほうでも落ちていますね。
これ、滝つぼだから笑っていられますけど、ロッククライミングだったら1回で死んでいます。そういう意味で、父は正しかったなと思うんですよ。まあ、山には登らないとはいえ、たまにアイゼンを履いたり、ピッケルを持ったりもしているんですけどね(笑)。でも、それもあくまでフライフィッシングのため。一応、言いつけは守っています。
国見:子どもの頃は、いわゆるアウトドアっぽいことはされなかったのですか?
山井:父にはたまにキャンプに連れていってもらいました。米軍払い下げのかび臭いテントを持って。でも、それも山じゃなかったですね。川辺のほうでした。
キャンプは「人間性を回復」してくれる
国見:そのキャンプが自分の人生に欠かせないなと思うようになったのは、いつのことですか?
山井:東京でサラリーマンをしていたときですね。大学も東京だったのですが、卒業して働き始めて2年くらいたったときに、体の調子がおかしくなってきたんです。外資系のブランド商社で営業企画の仕事をしていたのですが、入社したときに、総務部長に「この会社は、1人の新入社員を育てるのに、どのくらい投資するんですか?」と聞いたら、「1億円」と言われてね。そんなわけないんだけど(笑)、もしかしたら父に呼び戻されることもあるかもしれないとは少し思っていたので、それをまず純利益で返そうと考えていたんです。だから、上司から「山井の担当はここだ」と言われても、いらないから、全部新規開拓させてくれ、と申し出て……。
その会社には結局、4年半くらいいたのだけど、その間の1年あたりの売り上げは、僕1人で平均10億円くらい上げていましたね。粗利は50パーセントくらいだから、だいたい純利益が2億円。多分、1年で“貸し借りなし”にはなっていたと思います。ただ、けっこうなハードワーカーだったこともあって、心身に異常を来したみたいで。
国見:そのときにキャンプを思い出したわけですか。
山井:幼少期から高校まで、多分、30回くらい父にキャンプに連れていってもらっているはずなんですけど、回数はいまと比べるとすごく少ないものの、やっぱりそれが僕の中であるベースになっていたんです。切実にキャンプに行きたいな、と思うようになりましたから。
国見:文明社会には、便利なことがたくさんある半面、人間性を損なう側面もありますよね。便利って大切なことなんですけど、人間性を切り捨てているところもありますから。例えばメールにしても、わざわざ手紙を書かなくてよくなった分、効率的だし、労力も軽減されていますが、その裏で、便箋を選ぶドキドキ感とか、文字を1文字ずつ丁寧に書いて思いを込めるというような人間的な部分が捨てられているわけで……。
山井:そうやって失われてしまったものが、キャンプで回復されるのだと思いますね。僕は「人間性の回復」と言っているのですが、実際にキャンプフィールドにいる人たちを見ても、大人も子どもも、みんな幸せそうな顔をしています。家族の絆も深まるし、一人一人が豊かな気持ちでいると、たまたま隣り合った家族がすぐ仲良くなったりもする。キャンプをすれば、1人のユニットとコミュニティーが同じ方向で回復されていくんです。
国見:東京で働いていたときは、ご自身でも人間性が損なわれていると感じられていたのですか?
山井:感じていましたね。
国見:でも、仕事の休みにキャンプに行ったりはされなかった?
山井:行かなかったですね。市販のキャンプ用品に、自分の気持ちにフィットするようなものがなかったから。ダサいやつで行きたくないじゃないですか(笑)。これを使ってキャンプをすれば、豊かな時間が過ごせるというものが、当時はなかったんです。
リスクを先に整理する
国見:お父さまも確か、自分が使いたい登山グッズがないからと、それをつくり始めて創業されたとか。同じ感覚ですね。
山井:そうですね。でも、ちょうどその頃に、父に帰ってこいと言われたんです。サラリーマン3年目くらいのときですが、突然、父から電話がかかってきて、「(帰ってくると)約束したじゃないか」と言う。約束といっても、最後に「家を継げ」と言われたのは、小学6年のときですよ(笑)。それ以来、中学、高校、大学と何も言わなかったから、東京で就職したのだし、もともとスノーピークに入るつもりはなかったんです。
けど、いま話したように、僕自身は東京で働く中で人間性を阻害されていて、もうキャンプをやりたくてしようがなくなっていたし、自分が望むようなキャンプ用品がないこともよく知っていた。だから、父にそう言われたときはすぐに、「帰って、自分が望むかっこいいキャンプ用品をつくって、社内起業するしかない」と思いましたね。
国見:そこでもまた新規の取り組みですか。
山井:そう。当時のスノーピークは、売り上げが5億円くらいで、それほど大きな規模ではなかったのですが、会社はちゃんとまわっていました。そこに自分が加わるわけだから、新たに何か売り上げが立つことをやろうと思ったんです。じゃないと、自分の給料が出ないので。それに、1人で10億円の売り上げを上げていたのに、5億円のパイじゃ面白くないとも思っていたし……。
それで、86年7月にスノーピークに入った後、1年半の間に新商品を100個くらいつくって、カタログもつくって、新しい事業を立ち上げました。商品デザインの考え方のベースになる「スノーピークレイアウトシステム」※を考えたのも、そのときでしたね。
※スノーピークレイアウトシステム……スノーピークが提唱する、あらゆるフィールドで自由自在に美しく快適なアウトドアプロダクトのレイアウトを実現できるシステム。
国見:5億円の売り上げ規模の企業で新規事業を立ち上げるだけでも大変なのに、それを1年半でやったというのは、並大抵のことではありませんよね。
山井:最初の半年は、特にいろいろありましたね。もともと営業企画をやっていたので、商品企画はできますから、スノーピークに入ったときにCADを買って、自分で設計して開発を始めたんです。
で、あるとき、企画した商品を社長である父のところに持っていって「商品化したい」と言ったら、「いくらかかるんだ」と聞かれました。「金型をつくるのに100万円くらいかかる」と答えたら、今度は「いくつ売れるんだ」と聞く。僕は神様じゃないし、そんなの分かるわけないと思ったから「分からない」と答えたんです。そうしたら、「じゃあ、駄目だな」と言われて、それで終わりです。
国見:禅問答みたいですね。普通はメーカーといえば、自分たちでまず商品をつくって、展示会をやって、顧客に来てもらって買ってもらう、というやり方をしますよね。そうではなかったのですか?
山井:少なくとも父は、そういう思考回路じゃなかったですね。別の商品の企画を持っていっても同じで、そういうやりとりを、半年で10回くらいやったんですよ。だから、その次のときは、今度駄目だったら、もう独立して自分で商品化しようと思って、先に顧客のところをまわりました。スノーピークに入ってから、商品を企画する一方で、新規顧客の開拓をして、リレーションをつくってはいたので、予約注文を入れてもらおうと思ったんです。もちろん、もしかしたらまた却下されてしまうかもしれないけど、そうしたら独立して自分でつくるから、と言って、新商品のスケッチを片手に、とりあえず金型を起こす費用分の注文だけは先に集めました。
父のところへは、その注文書の束を上着の内ポケットに入れて、反対側のポケットには辞表を入れて、提案に行きましたね。企画した商品を見せたら、例によって「いくらかかるんだ」と聞いてくる。「金型代で100万円」と答えると、また「いくつ売れるんだ」と言う。そこで注文書の束をたたきつけて、「注文は取れるんだ」と言い返したんです。そうしたら、「何をのんびりしているんだ、早くやれ」と言うんですよ(笑)。ひどいでしょ? でも、それが僕に対する父の帝王教育だったんです。リスクを先に整理しなさい、ということですね。
「自分はスノーピークのファン」
国見:金型代のリスクを、予約注文という裏付けで整理したということですか。そのやり方で、そこから100アイテムつくられたわけですね。
山井:そうです。でも、逆に良かったのは、金型を起こしていないから、お客さんの要望を聞くことができたんですよ。「普通は展示会の案内を手にして、来てくださいと話しにくるのに、お前が持ってくるのはスケッチだもんな。変わってるよな」なんてさんざん言われましたけど(笑)、でもそのスケッチを見ながら、「ここが三角だったら買う」とか「ここがあと10ミリ太いほうがいい」とか、言ってくれるじゃないですか。そうやって一緒に商品をつくっていくことができたおかげで、めちゃくちゃ太いリレーションができたんです。
国見:山井さんはよく、「自分はスノーピークのファンなんだ」という言い方をされますよね。近くで見ていても、社長というよりはユーザーとしてスノーピークに関わっておられる印象があります。だから、これだけ好きなことをやっているのに、「俺がやっている」という感じにならないんだと思うんです。いまのお話もそうですが、社員はもちろん、ユーザーさんも含めて、常にみんなでやっているという感じがしますね。
山井:主語はいつも、「私たちスノーピークは」でありたいとは思っていますね。
国見:そこのところは、働き方を考える上で、すごく大切なことだと思うんです。この数年、働き方改革が話題ですが、ともすると時間管理の話にすり替わってしまいがちです。ただそう捉えてしまうと、議論が本質的でなくなると思うんですよ。
あるデータによれば、本来人間は、忙しくなればなるほど、充実感を覚えるものなんだそうです。でも、ほとんどの場合、仕事が忙しくなると充実感は低下していく。その違いはどこにあるのかというと、関係性だというんです。要するに、一緒に働いている人たちとの関係性がいいほど、忙しくなると充実感が増す。でも、関係性が悪ければ、充実感は低下する。仲のいいクラスでやる学園祭って、楽しいじゃないですか。でも、仲の悪いクラスでやる学園祭ってつまらない。それと似ている気がします。
山井:スノーピークでは、土日はほとんどキャンプのイベントが入っています。毎週ですよ。だから、入社の面接に来る人たちはみんな決まって「キャンプが大好きです」なんて言うのだけど、もし本当はキャンプが好きじゃないのに、うそをついて入社したとしたら、すごく不幸になるんですよ。毎週、毎週、キャンプだから。そうやって自分を偽って入ってきた人は、やっぱり続かないですね。だから念のために、内定者の最終研修は、2月の雪中キャンプにしているんです(笑)。
でも、ちゃんとキャンプが好きな人が残ってくれているおかげで、社員の価値観が共通していて、やりやすいのは事実ですね。それに、いまいろいろとビジネスの幅を広げているんですけど、「キャンパーとして、我々はビジネスをどう変革するか」「キャンパーとして、どう地方創生に関わるか」と、すべて「キャンパーとして」やっていますから、価値観は特に大切なんです。
(了)

山井太
株式会社スノーピーク 代表取締役社長
1959年、新潟県三条市生まれ。明治大学卒業後、外資系商社勤務を経て、86年に父親が創業したヤマコウ(現・スノーピーク)に入社。アウトドア用品の開発に着手し、オートキャンプのブランドを築く。96年から現職、社名をスノーピークに変更。毎年30~60泊をキャンプで過ごすアウトドア愛好家。徹底的にユーザーの立場に立った革新的なプロダクトやサービスを提供し続けている。株式会社スノーピークは14年12月、東証マザーズに上場。15年12月、東証1部に市場変更。

国見昭仁
株式会社電通 ビジネスデザインスクエア未来創造室 室長
1996年、都市銀行に入行。法人向け融資業務を担当した後、広告会社を経て、2004年に電通に入社。10年には、経営者と向き合って企業のあらゆる活動を“アイデア”で活性化させる「未来創造グループ」を立ち上げる。15年からエグゼクティブ・クリエーティブ・ディレクター。化粧品、家電、通信、アパレル、旅行、通販、外食、流通などさまざまな業界において、経営、人事、事業、チャネルなどの広範囲におけるビジネスデザインプロジェクトを多数手掛けている。
地域にいま必要なのは「弱さの強さ」(後編)
- August / 09 / 2017
地域で“落ちこぼれる”人たち
辻:いまの時代は、“自由”になった経済が、逆に社会を呑み込んでしまっていますよね。本当に“経済さまさま”の世の中です。人の生き方ですら、経済学者にお伺いを立てなくてはいけなくなっている(笑)。
でも、そういう考え方では、どうにも折り合いのつかないことが出てくるわけです。その一つが弱い人たちの存在ですね。障害のある人たちもそうだし、他にもいろんな弱さがあります。赤ちゃんも、年を取ることもそうですよ。病気だってそう。僕らは一生を通じて、弱さと付き合いながら生きているんです。だからこそ、人間には家族が必要だし、コミュニティが必要なんですよ。僕は「弱さの強さ」と呼んだりもしているのですが、弱さというでこぼこと何とか折り合いをつけながら生きる仕組みを、人間は進化とともに身に付けてきたんだと思うんです。
逆に言えば、弱さを得たことが、人間が人間へと進化する決定的なポイントになったのではないか、とも考えられる。コミュニティをつくり直していくときには、やっぱりこういうところに戻って考えなくてはいけないと思うんです。そこを踏まえずに、都会で学んだ「勝ち負けがすべて」という価値観を、家庭やコミュニティに持ち込んだら大変なことになるでしょ?
山崎:僕らもそこは気にしていますね。都市部のプロジェクトに関わるときは特にそうで、ワークショップで「10万時間」という数字を見せて注意を促しています。ふつうの人は、だいたい20歳くらいから働きはじめますよね。1日8時間、週に5日間で、それを65歳まで続けると、おおよそ10万時間になるんです。そこで重視されているのは、「素早く」「効率的」「正確」「効果的」「経済的」「緻密」といった価値観。それができない人は、いまの社会だと落ちこぼれのように言われたりもします。
でも、人生は65歳で終わるわけじゃない。その後も続いて、90歳くらいまで生きてしまうような時代です。その間は1日約16時間を家庭や地域で過ごすことになる。しかも週5日ではなく、週7日。その時間の積み重ねがどのくらいになるかというと、これもだいたい10万時間なんです。つまり、20歳から65歳まで働いてきたのと同じ時間を、老後にまだ持っているわけです。
ただ、そこで求められる価値観が、仕事のときとはちょっと違うんですね。「失敗が多い」とか、「そこそこでいい」とか、「煩わしい」とか、「試行錯誤」とか、そういったことが重要になる。そういう価値観で動くから、つながりもできるし、信頼関係も築かれるし、コミュニティのなかでの役割も生まれる。健康だって手に入るわけです。
辻:仕事のときは、「強さの強さ」が求められるけれど、65歳からは、「弱さの強さ」が求められるということかな?
山崎:まさにそうです。だから、地域に「強さの強さ」を持ち込まれると困るんです。ところが、ワークショップをやっていると、プリプリ怒っているおじさんがいたりするんですよ。「9時から始めると言ったじゃないか。もう5分も過ぎてるぞ」とか、「街づくりは何でこんなに進み方が遅いんだ。もっと効率的にやるべきだ」とか。そういう人にかぎって、ワークショップが終わったら、「○○株式会社 元部長」なんて書かれた不思議な名刺を出してきたりするのですが…。
誰かがリーダーになって、強い指導力を発揮して…みたいな進め方が理想だと思っている人も多いのですが、それだと「じゃあ、あの人に任せておこう」と、街づくりが一部の人のものになりがちだし、そもそもその人が倒れたりしたら、動きが止まってしまいます。だから、そんなやり方をしてほしくないんですよ。むしろ、「素早く」「効率的」「正確」「効果的」「経済的」「緻密」みたいな価値観を持ち込まれると、地域ではそっちが落ちこぼれだと言わざるをえない。もっとヨロヨロと進んでほしいんです。あちこちぶつかりながら結束力を高めて、みんなに役割が与えられて、うまくいったら全員で喜ぶ、という構図が欲しい。自分に任せてもらえれば効率的にできます、みたいな考え方は、地域では望ましくないんです。
辻:さっきの話じゃないけれど、もっとゴリラ的であったほうがいいということですね。
山崎:だと思います。だから、10万時間の話をするときは、僕らは「65歳以降の10万時間をどう使うか、考えてください」と投げかけます。ただ、20歳から65歳までの毎日にも、仕事と睡眠以外の時間が8時間ありますから、その積み重ねで実はまだ別に10万時間持っているんです。そこの時間を生かして地域に出てきて、地域の論理というか、ゴリラ的なものを身に付けていったほうがいい。まあ、いまの世の中だと会社ではサル的に戦うしかないのかもしれませんが、それが全てになると、定年退職して地域に出たときに落ちこぼれになるわけですから。
大切なのは、付箋と模造紙を使う“前”
辻:競争原理だ、効率だという都会の考え方の枠組み、つまりはマインドセットを変える必要があるわけですね。
山崎:そう、まさにマインドセットです。そこのところについては、辻さんはよくアインシュタインの言葉を引用されていますよね。
辻:「ある問題を引き起こしたのと同じマインドセットで、その問題を解決することはできない」でしょう? 例えば、3.11の大震災で、ぼくたちは福島の原発事故という巨大な問題を抱え込んだわけです。あるいは、巨大な問題を抱えていたことに気付いたと言ってもいいかもしれない。じゃあ、その問題を解決するにはどうしたらいいんかと言えば、同じマインドセットでそれを解決することはできないんです。なぜなら、そもそもそのマインドセットが問題を引き起こしているわけだから。でも、原発の問題も含めて、ほとんどの場合、僕らはマインドセットそのものをそのままにしておいて、小手先の工夫をやり続けてしまうんですよ。
山崎:福島くらいの問題になると、日本全体を巻き込んだ大きな話ですから、確かにマインドセットを変えづらいところはありますね。でも、地域レベルだと、もう少しスムーズに変えられる可能性があるんじゃないかと思うんです。
例えば、集落から若い人たちが出て行ってしまうという問題を考えるにしても、「やっぱりお金がもうかったほうがいいし、便利なほうがいい」というマインドセットで議論していくと、「じゃあ、うちの街にも有名なカフェチェーンに来てもらおう」とか、「ハンバーガーショップを呼ぼう」とかいう話になりますよね。街が便利になれば、若い人が残ってくれるんじゃないかという発想しか出てこない。
でも、実際はその方向に進めば進むほど、「やっぱり東京のほうがいいな」と若い人たちはますます思うわけですよ。マインドセットを変えて、自分たちにとっての幸せとは何なのかを、もう一度問い直すところから始めないと、本当に価値のあるアイデアは出てこないんです。ワークショップを地域でやるときにも、時間をかけるのはそこのところですね。基本的な考え方の枠組みをまず変えないと、7.5センチ角の付箋に書かれるアイデアがどれも東京にあるようなものにしかなりませんから。要するに、大切なのは付箋と模造紙を使う“前”のところなんです。
ただ、考え方が変わったなと思っていても、1カ月あいだを空けて再び訪れると、また元に戻っていたりするんですよ。それを何度も何度も変えて、ちょうどいいあんばいになってきたかな、というところで意見を出してもらうと、その地域ならではのアイデアになることが多いですね。
地域は「メチャクチャもうかる」
辻:確かに世界の仕組みというのは、とても複雑なんだけど、うまくつくられていて、僕らはいつのまにかいろんなことを信じ込まされていますからね。外から地域に行くと、ふつう、まず起こるのは「金になるかどうか」という反応でしょ?
山崎:マインドセットが変わらないうちは、地域でもいろいろな反応が出ます。「こんな考え方では食べていけない!」みたいに。大学の教員をしていると、公的な委員会みたいなところに呼ばれることもあるのですが、そんな席でも、「山崎さんのやっておられる街づくりは、大変意義があるのは分かるけれど、もうかりませんよね」と同情のような声を掛けられることもよくあります。
最近はそこで、「メチャクチャもうかりますよ」と答えることにしているのですが、ものすごくびっくりされますね(笑)。でも、うそじゃないんです。お金のもうけももちろんありますが、地域に行くことで友達や先輩ができたりと、いろんな“もうけ”がありますから。
辻:“もうけ”という言葉の意味を拡張しちゃうんですね。
山崎:ええ。例えば、僕はこれまで約250の地域に関わっていて、それぞれ100人規模のワークショップをやっていますから、単純に考えると2万5千人くらいの人と交流してきています。そのなかには「食えなくなったら、うちに来いよ」なんて言ってくれる人も少なからずいて、それだけでも心穏やかに暮らせる。これも一種のもうけですよね。
それだけじゃない。関わったなかには、うちの事務所に季節ごとにいろんなモノを送ってくださる人もいます。新米がとれたからと、80キロの米が届いたり…。それももちろんもうけです。他にも地域に行くと、その土地の歴史をはじめ、いろいろなことを教えてもらえます。僕の場合はそれが本を書くときのヒントになったりもしている。これももうけ。あとは何といっても感謝の言葉ですね。地域の人たちから「来てくれて、ありがとう。助かったよ」なんて言ってもらえると、達成感も、満足感も上がる。素晴らしいもうけですよ。こういうものを含めて考えると、僕らの仕事は本当にぼろもうけなんです。
本当の豊かさは時間にある
辻:山崎さんの話を聞いていると、これまでは、都会にいたほうが世界とつながることができるという感じが強かったのに、いまはまったく逆になってきているということがよくわかりますよ。実際に僕も世界のいろんなところを訪れて肌で感じているのですが、さまざまな新しい価値観があちこちの地域で動きはじめています。何かを奪いとって得をしたとか、金がもうかったとかという側面がないとは言わないけれど、それだけではない価値観を持った人たちが、けっこう豊かな人生をそれぞれの場所で生きはじめているんです。
きょうのテーマでもある「地域の唯一無二」ということで言うと、昔は「一村一品」みたいに、自分のところにしかないモノをつくったり、売ったりしようと考えたじゃないですか。でも、本当は、そういうことじゃないと思うんです。ある意味ではどこにでもあるのだけど、そのどこにでもあるものをこんなふうに活かして生きているというところに、本当の唯一無二がある。昔、沖縄の人たちが言っていたみたいに、自分たちのいるところが世界の中心だという感覚のことなんじゃないかなと思うんです。中心がどこか他の遠いところにあるということじゃなくて。
山崎:先日、秋田県の大潟村に行ったときに、僕もそれに近いことを感じました。あそこは住民がみんな農業をやっているから、時間の感覚がそろっているんです。だから、農作業に支障がなければ、平日の昼間でも、思い立ったときにみんなで示し合わせて遊びに行ったりできる。水やりは午後2時からだけど、30分遅れたせいで稲が怒っていた、みたいなことはないから(笑)、ある程度、融通も利きますし…。彼らはそういう時間の捉え方や使い方を「大潟時間」と呼んでいたのですが、それはやっぱり唯一無二の価値ですよね。「きょうは天気がいいから、ランチを食べたら山に行くことにしよう」なんて、東京じゃ絶対にできないわけですから。ああいう時間の使い方は本当にリッチですよ。
辻:僕は奥会津に行ったときにすごく感動したのは、冬には冬の豊かな時間があることです。雪国の冬って、「何もない」と外の人は思いがちだけど、実は冬のほうがいろんなお祭りや儀礼があったりする。小正月には、道具を全部出して「道具の年越し」をしたり、地域の付き合いも濃密だし、時間の過ごし方が丁寧でリッチなんですよ。それに比べると、都会人はずいぶん時間というものに疎くなってしまいました。『スロー・イズ・ビューティフル』という本は、そこに気付いてもらおうと思って書いたのだけど、15年経ってもあまり世の中が変わったとは思えません。むしろ悪くなっているかもしれない。
本当の豊かさは、やっぱり時間にあると思うんですよ。人生のなかで真に自分のものだと言えるのって時間だけでしょう? その時間をどうやって過ごすのか。僕らが大切にしなくちゃいけないのは、そこですね。
(了)

辻信一
文化人類学者・明治学院大学国際学部教授
1999年にNGO「ナマケモノ倶楽部」を設立。以来、「スローライフ」、「100万人のキャンドルナイト」、「GNH(国民総幸福)」などの環境=文化運動を提唱。2014年、「ゆっくり小学校」を開校。著書に『スロー・イズ・ビューティフル 遅さとしての文化』(平凡社ライブラリー)、『弱虫でいいんだよ』(ちくまプリマー新書)など多数。映像作品にDVDシリーズ『アジアの叡智』(現在6巻)がある。本年11月11~12日には「『しあわせの経済』世界フォーラム2017~Local is Beautiful!」を都内で開催する。 http://economics-of-happiness-japan.org/

山崎亮
studio-L代表/東北芸術工科大学教授(コミュニティデザイン学科長)/慶應義塾大学特別招聘教授
東北芸術工科大学教授(コミュニティデザイン学科長)。慶應義塾大学特別招聘教授。1973年、愛知県生まれ。大阪府立大学大学院および東京大学大学院修了。博士(工学)。建築・ランドスケープ設計事務所を経て、2005年にstudio-Lを設立。地域の課題を地域に住む人たちが解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりのワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、市民参加型のパークマネジメントなどに関するプロジェクトが多い。著書に『ふるさとを元気にする仕事(ちくまプリマー新書)』、『コミュニティデザインの源流 イギリス篇』(太田出版)、『縮充する日本 「参加」が創り出す人口減少社会の希望』(PHP新書)、『地域ごはん日記』(パイ インターナショナル)などがある。
「アーティスト」と「アートディレクター」の境目はどこにあるのか(前編)
- November / 01 / 2017
何かを感じ取ってもらうには客観視が大切
舘鼻:清川さんと初めて会ったのは、確か4年か、5年くらい前でしたよね。シャネルのオートクチュールのショーで、たまたま席が隣になって…。それからは、いわゆるアーティスト友だちとして、お互いの展覧会に遊びに行ったり、来てもらったりしていますけど、まだ一緒に仕事をしたことはないし、なぜかあまりオフィシャルなところで関わることはなかったですね。
清川:そういえば、そうですね。こういう場でお話しするのも初めてですね。
舘鼻:だからこそ、今日は改めていろいろと聞いてみようと思っているのですが…(笑)、まず、清川さんといえば、写真に刺しゅうを施した作品がよく知られています。あれはいつ頃から始めたのですか?
清川:2003年くらいからです。当時は複製できないものに興味があって、いろいろと表現の可能性を模索していたんです。そうしたらある日、1枚の写真の上に糸が落ちているのを見かけて…。縫ってみよう、と思ったのがきっかけです。
舘鼻:学生の頃は何を?
清川:文化服装学院でアパレルデザインを専攻していました。でも、読者モデルみたいなこともしていたし、編集者と一緒に雑誌のページをつくったり、企画を提案したりもしていて、忙しい学生でしたね。
舘鼻:自分が被写体として表に出たりもしつつ、同時にディレクションしたり、プロデュースしたりもしていた、ということですか。周りのファッションデザイナーを目指している子たちとは、動き方が違っていたでしょう?
清川:全然違っていましたね。違いすぎて迷った時期もあったんですけど(笑)、そのまま活動を続けていたら、あるギャラリーに声を掛けてもらって、2001年に個展をやることになったんです。もともと卒業したらモデルの仕事は辞めようと思っていたのですが、ちょうどその頃から、CDジャケットをはじめ、デザインの仕事の依頼も来るようになって…。ギャラリーを中心に作品を発表しながら、一方で商業ベースの仕事も始めて、そこからはものづくり一本です。

「女である故に」 ©︎AsamiKiyokawa
舘鼻:ディレクションしてものをつくっていく仕事と、アーティストとして作品をつくっていく活動とは、似ているようで違いますよね。割と最初から両立できていたのですか?
清川:う〜ん、気付いてみたらそうだったという感じですね。ただ、学生の頃に自分がメディアに出たり、企画に関わったりしていたことも含めて、表と裏がよく見える立場にいることは、特にアーティスト活動に役立っているとは思います。例えば、普通ならメディアでは、女性のキラキラした表の部分だけを見せますよね。でも女性って、裏ではみんなコンプレックスを持っていて、本当はそれがすごく素敵だったりします。ずっと私が続けている「美女採集」(※)のシリーズも、そういう表と裏が見通せたからこそ始めたものでしたから。
※「美女採集」……美女の写真に刺しゅうなどによる装飾を施し、それぞれのイメージに合わせた動植物に変身させるシリーズ作品。
舘鼻:確かにあのシリーズは、一般に「こうだ」と思われている女優さんたちのイメージとは、ちょっと違った内面のようなものが見えてきて面白いですよね。それが清川さんの手の痕跡を残しつつ、表現されているのも興味深いし。“採集”されている女優さんの中には、あの企画で初めて会った人もいるのですか?
清川:むしろ、会ったことのない人を選んでいます。会ったことがあると、コンセプトが優しくなってしまうかなと思って。それに、そのとき世の中で輝いている美女を捕まえて標本にしているのは私ですけど、見る人にそこから何かを感じ取ってもらおうと思ったら、やっぱり客観視することが大切なので。
舘鼻:なるほど。分析はどうやって?
清川:全部、自分で調べます。リサーチ魔ですから(笑)。でも、映像を見れば、大体性格が分かります。この人はこうだなって。それを書き出していって、読み解いて、動植物に例えているんです。例えば、夏木マリさんだと、行動とか佇まいとかが、全て形状記憶されているような印象がありますよね。ずっと残り続けていきそうな。そういうイメージからアンモナイト。いま大人気の吉岡里帆ちゃんなら、いろんなものに巻きついて栄養を取り入れて、どんどん成長していく感じがアサガオかなと。橋本マナミさんは、ニシツノメドリですね。オレンジのくちばしを持った鳥で、一度にたくさんの魚を捕る。多くのものを一気に手に入れたいという積極的なところとか、そのための努力とかが橋本さんには見える気がして。

「美女採集」<吉岡里帆×朝顔> ©︎AsamiKiyokawa
舘鼻:あれだけたくさんの人を作品にしていると、モチーフがかぶったりしそうですけど……。
清川:いままで200人以上採集していますが、かぶったことはないですね。人の個性って、そのくらい多様なんだと思うんです。それに作品にしたくなるのは、その中でも面白い人ですから。この人、いいな、妖しいな、と思うような魅力のある人。これは「美女採集」だけの話ではありませんが、男性も女性も、経験とか年齢とかを重ねた人のほうが作品にはしやすいですね。
日本の工芸品は「用途のある芸術」だから
清川:ところで、舘鼻くんのデビューはいつなんですか?
舘鼻:いわゆる「世に知られるようになったきっかけ」ということで言えば、2009年につくっていた大学の卒業制作の作品ですね。清川さんもご存じのヒールレスシューズというかかとのない靴なのですが、それを2010年にレディー・ガガさんが日本のテレビ番組で履いて、僕のこともそこで話してくれたんです。それからしばらくは、レディー・ガガ専属のシューズメーカーとして、彼女としか仕事をしていなかったんですよ。もう、レディー・ガガさんのために人生を捧げているというくらい(笑)。

ヒールレスシューズ ©︎ NORITAKA TATEHANA, 2017
清川:初めて舘鼻くんと会ったときも、そんな感じでしたっけ?
舘鼻:たぶん、そうだったと思いますよ。ただ、僕自身は、別に靴をつくりたかったわけではないんです。僕は東京藝術大学の工芸科で染織を専攻してきていて、日本のファッションというべき着物や下駄について勉強したり、花魁(おいらん)の研究をしたりしながら、より新しい価値観が感じられる作品をつくりたいと思っていたんです。あのヒールレスシューズも花魁の高下駄から着想を得ました。
清川:私も花魁は大好きです。
舘鼻:彼女たちは江戸時代のファッションリーダーだったんですよね。いまストリートからファッションが発信されるといわれるのと同じで、当時は吉原の遊女の格好とか、メークとかが、江戸の町娘たちに取り入れられてはやったりしていたんです。皇室のような高貴なファッションももちろんあったわけですが、そういう高尚なものだけじゃなくて、不健全だからこそファッションになったようなところがあった。僕はそこに魅力を感じて、いくつも遊女に関わる作品をつくったりしています。例えば、ステンレスの大きなかんざしのオブジェとか。もともと日本の工芸品は「用途のある芸術」です。でも、いまは普段からそういうものを使っているわけじゃない。かんざしなんて、現代の人はあまり使いませんよね。そういう「用途のある芸術」から用途を取り去ったら、見る人にどういう感覚が芽生えるのか。彫刻として見たらどうなのか、という実験的な作品なんです。
清川:でも、ヒールレスシューズは、意外なくらいに履きやすいですよね。2012年に「VOGUE JAPAN Women of the Year」を受賞したときに、授賞式で履いて登壇させてもらいましたけど……。
舘鼻:日本の美術って、やっぱり工芸じゃないですか。いまも話したように、用途があって、それを満たしてこそという部分があるわけです。だから、かんざしのように昔からあるものをどうにかするのではなく、現代に新たに工芸品を生み出すのであれば、それはしっかりと使えるものであるべきだし、靴なら履きやすくて、歩けなくちゃいけない。そう思ってつくってはいますね。

かんざし ©︎ NORITAKA TATEHANA, 2017 Photo by GION
毎回のように新しい手法を開発する
清川:舘鼻くんは、他にもいろんな活動をされていますよね。少し前には文楽(※)にも関わっていたでしょう?
※文楽……浄瑠璃と人形によって演じる人形劇である人形浄瑠璃のうち、大阪を本拠とするもの。
舘鼻:パリのカルティエ現代美術財団で公演した「TATEHANA BUNRAKU : The Love Suicides on the Bridge」ですね。僕は監督を務めたんです。といっても、舞台美術もつくったり、演出もしたりと、いろんな作業に携わりましたけど。
清川:どういう経緯で公演をやることになったのですか?
舘鼻:フランスではもともと人形劇が盛んで、最初はフランスの人形劇の監督をしてみないか、というオファーをもらったんです。でも、日本にも人形浄瑠璃がありますから、どうせだったら、それを世界へ持っていきたいなと思ったんですよ。その提案を、カルティエ現代美術財団が受け止めてくれたんです。

文楽 ©︎ NORITAKA TATEHANA, 2017 Photo by GION
清川:準備が大変そうでしたよね。その時期は、なかなか連絡がつかなかったから…。
舘鼻:公演は2日間だけだったのですが、30人くらい連れて、日本から行きましたからね。一部は向こうで制作しましたし…。パリにアトリエを借りて、そこでチームと仕上げをしつつ、舞台を組み上げていったんです。
そういうところも含めて、あの公演は日本の世界観の世界への輸出のようなものでもあったのですが、日本とフランスは、歴史的な成り立ちとか、文化的な側面で似ているところもあるからか、現地の人たちには割とスムーズに受け入れられた気がします。ただ、同じことをニューヨークでやったらどうなるのかな、とは思いますね。パリでやったような心中の物語は、日本独自の死生観では文字通りのバッドエンドではないのだけど、アメリカ人はたぶん、もっとストレートに受け止めるでしょう? 今度はそこに切り込んでみたいなとは思っています。
清川:最近はレストランのクリエーティブディレクションもしているんでしょう? 本当に幅が広がってきていますね。
舘鼻:いや、でも、僕はまだ大学を卒業してから7年くらいしか活動していないんですよ。しかも前半はヒールレスシューズをつくるブランドとして活動していたわけですから、まだこれからです。
幅が広いという意味では、清川さんの活動は本当に多岐にわたっていますよね。CDジャケットのデザインをしたり、化粧品のパッケージデザインをしたり、広告のディレクションをしたり…。この間は、NHKの朝の連続テレビ小説の仕事もされていたでしょう?
清川:『べっぴんさん』(※)ですね。オープニング映像やメインビジュアルなどを手掛けていました。
※『べっぴんさん』……2016年10月から2017年4月にかけて放送されたNHK「連続テレビ小説」。子ども服を中心とするアパレルメーカー・ファミリアの創業者をモデルに、戦後の時代を生きる女性の姿が描かれた。
舘鼻:アーティストとしての活動も、さっき聞いた写真に刺しゅうを施す作品にしてもいろんなシリーズがあるし、絵本だって何冊も手掛けられていて…。本当にさまざまな表現をされていますよね。
清川:そうですね。光の彫刻をつくったりもしているし、いろんな手法を毎回、試行錯誤しながら開発しています。例えば、最近だと「1:1」という作品があるのですが、あれを実現させるのは、すごく苦労しました。

「Ⅰ:Ⅰ」<1月24日 Jan.24> ©︎AsamiKiyokawa
舘鼻:Instagramの写真を使った作品でしたよね。
清川:そうです、そうです。いまの時代って、特にSNSなどで自分が見ている世界は、実はたくさんのレイヤーでできているんじゃないかと私は思っていて、うそも本当も、見ている世界に全部隠れている気がするんです。そのことは1枚の写真にもいえるんじゃないかと思って…。それをどう表現しようかと考えたときに、あの手法を思いついたんです。
舘鼻:僕も実際に作品を拝見しましたけど、こんなの見たことがないと思いました。あれはどういう作業工程なんですか?
清川:詳しいことは秘密なんですけど(笑)、私がスマホで撮った写真をネガとポジに変換したものを、たくさん並べた糸に1本ずつ交互に転写して、それをアクリルの中に閉じ込めているんです。作業を進めていくときに職人さんに「こういうことをやりたい」と言ったら、最初は「やったことがないから」となかなか理解してもらえませんでしたが、最後は、面白いから一緒につくっていこうと協力していただけました。

清川あさみ
アーティスト
淡路島生まれ。2001年に初個展。03年より、写真に刺しゅうを施す手法を用いた作品制作を開始。水戸芸術館や東京・表参道ヒルズでの個展など、展覧会を全国で多数開催。 代表作に「美女採集」「Complex」シリーズ、絵本『銀河鉄道の夜』など。作家、谷川俊太郎氏との共作絵本『かみさまはいる いない?』が 2 年に一度のコングレス(児童書の世界大会)の日本代表に選ばれている。 「ベストデビュタント賞」受賞、VOCA展入賞、「VOGUE JAPAN Women of the Year」受賞、ASIAGRAPHアワード「創(つむぎ)賞」受賞。広告や空間など幅広いジャンルで国内外を問わず活躍している。現在は、福島ビエンナーレ「重陽の芸術祭」において、「智恵子抄」で著名な高村智恵子の生家でのインスタレーションも行っている。

舘鼻則孝
アーティスト
1985年、東京生まれ。歌舞伎町で銭湯「歌舞伎湯」を営む家系に生まれ、鎌倉で育つ。シュタイナー教育に基づく人形作家である母の影響で幼少期から手でものをつくることを覚える。東京藝術大学では絵画や彫刻を学び、後年は染織を専攻する。遊女に関する文化研究とともに日本の伝統的な染色技法である友禅染を用いた着物やげたの制作をする。近年はアーティストとして、国内外の展覧会へ参加する他、伝統工芸士との創作活動にも精力的に取り組んでいる。2016年3月には、カルティエ現代美術財団にて文楽の舞台を初監督し「TATEHANA BUNRAKU : The Love Suicides on the Bridge」を公演した。作品は、ニューヨークのメトロポリタン美術館やロンドンのビクトリア&アルバート博物館など、世界の著名な美術館に永久収蔵されている。
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